3球団V経験の元投手・石毛博史さんは富山で“金の卵”を探す
“石毛劇場”は「マスコミが言い出したこと」
さて、1970年7月13日、千葉県銚子市生まれの石毛さんは、88年にドラフト外で巨人に入団。デビューは91年4月で、当時の宮田征典・二軍投手コーチに見いだされて92年からリリーフ投手として頭角を現した。
93年には154キロのストレートとフォークボール、スライダーを武器に30セーブを挙げ、最優秀救援投手賞を獲得。当時の長嶋茂雄監督は、橋本清さん(現野球評論家)から石毛さんへとつなぐ継投策を「勝利の方程式」と名付け、それが球界用語になった。
「宮田コーチには、『弱い部分を見透かされるから、結果に一喜一憂するな。勝っても負けても同じ表情でマウンドから降りてこい。淡々と毎日投げることがリリーバーの仕事なんだ』って教えられました」
“石毛劇場”とも言われたが?
「それはマスコミが言い出したこと。僕はいつも真剣勝負でしたし、結果としてチームの勝利になるにはどう投げればいいかを打順や打者の調子やクセを考えながら投球を組み立てていく。時には、ギリギリを狙いつつあえて四球を出して次の打者と勝負するのも作戦のひとつでした。それがなかなか理解されない面でもあるんですけどね」
そして97年に近鉄へ。一時、先発を任されたが、結局抑えに定着。02年シーズン終了後に阪神へ移籍。リリーフエースとして05年の引退まで活躍した。
特筆すべきは、94年の巨人軍日本一の立役者のひとりで、近鉄、阪神でもリーグ優勝を経験。「優勝請負人」とも呼ばれたことだ。
「んー、僕は『請負人』なんて意識したことはないですね。優勝はチームメートの総力で成し遂げたことですから」
小学生時代から野球一筋。球歴は40年になる。
「現役引退後も、あちこちのチームでコーチや監督をさせてもらい、今は未来の大器を発掘する仕事を任されました。野球界に貢献するのは、僕の使命かな……って感じますね」
富山市内に奥さんと2人暮らしだ。
(取材・文=高鍬真之)