堂安律 紆余曲折経た「日本のメッシ」は救世主になれるか
代表若返りを目指した森保一監督が逸材を見逃すはずがなかった。新生代表発足時から主力に位置づけ、19年アジア杯(UAE)でも1試合を除いて先発で起用。本人も準々決勝・ベトナム戦で決勝点を叩き出すなど一応の結果は残した。
当時から背番号11を背負い「カズ(三浦知良)越え」の期待を寄せられたが、同年夏に強豪PSVへ移籍してから状況は一変。出番が激減し、代表でも伊東純也(ゲンク)にポジションを奪われる形になった。
同じタイミングで代表入りした同期の冨安健洋(ボローニャ)は絶対的主力となったが、堂安はベンチに座ることが増加。明暗を分けた状態になった。
この苦境から脱するべく、彼はコロナ禍の20年夏にビーレフェルトへレンタルで赴く決断を下す。
「少し遠回りに見える道でも、僕にとっては近道。強くなるために、うまくなるために選んだ決断でした」と欧州組で編成された20年10月のカメルーン・コートジボワール戦(ユトレヒト)の際にも語っていた。
が、この2連戦では不発に終わり、11月のオーストリア遠征はコロナの影響でクラブが招集を拒否。今年3月の五輪代表活動もケガのため辞退する羽目になり、森保監督への強烈アピールは叶っていない。