<8>高橋尚子は五輪直前に左脚を故障、シューズに対する考えを変えた
1992年バルセロナ五輪。日本のマラソン陣は、男子が中山竹通、谷口浩美、森下広一、女子は山下佐知子、有森裕子、小鴨由水。男女とも金メダルを狙える実力者が揃った。この大会の優勝は男子が韓国の黄永祚、女子はワレンティナ・エゴロワ(ソ連崩壊でEUN代表)。日本勢は森下、有森が銀。男女の金・銀選手のシューズはアシックスだった。
96年アトランタ大会は有森が銅。連続メダルの偉業を達成したが、私が担当役員の間には、五輪のマラソンでセンターポールに日の丸を見ることはできなかった。
40年間の夢をかなえてくれたのが2000年シドニー五輪の高橋尚子だ。
実は高橋は、この舞台に立てるかわからなかった。99年8月の世界陸上(スペイン・セビリア)のレース直前、高橋は左脚を故障する。小出義雄監督は順大時代の恩師である日本陸連の帖佐寛章副会長に国際電話で高橋の症状を説明。帖佐氏は国内のスポーツドクター4人に助言を求め、高橋のレース欠場を小出監督に命じた。ところが小出監督は「欠場」に納得できず、現地のチームドクターに相談。ここでもストップがかかり、レース当日の早朝になってようやく欠場を決めた。