第1回大会から何度も関所を跨ぎかけた理由は「地域差でなく階級差」
2年後の福島・磐城の田村隆寿もあと一歩だった。こちらは浜通りだから「勿来の関」になるが、「小さな大投手」は3試合連続完封し、神奈川・桐蔭学園との決勝で七回に1失点して敗れた。
次いで仙台育英が勝ち上がった89年。大越基と東京・帝京の吉岡雄二の息詰まる投げ合いで、大越は延長十回に力尽きた──今夏の快挙は東北勢として10度目の正直だったが、最初の4度の「寸前」を見れば、白河以北が「負け犬」などと言われる筋合いはないだろう。
第1回の秋田中は東北予選がなく、秋田3校の県予選だけで出場。盛岡中(現・盛岡一高)の野球部創部は1899(明治32)年、仙台一中(仙台一、二高の前身)はそれより早い97(明治30)年とされる。予選をやっていれば京都を倒していたかもしれない。
■学業優秀か裕福な家庭
接戦の理由は簡単だ。旧制中学は実力伯仲だったからだ。
5年生の旧制中学に進むのは学業優秀か裕福な家庭の子息──日本はまだ地域差ではなく階級差の時代だった。東北だろうと四国だろうと、中学を出れば東京の専門学校(私大)に進み、東京六大学野球に触れ、郷里に野球を持ち帰った。盛岡中の久慈次郎(早大)、秋田角館中は五井孝蔵(立大)……先輩のツテで後輩が白河を越えて遠征し合宿した。