いまも生きている父・徹さんの教えとTJ手術後のスケールアップ
大谷翔平の実家がある水沢から盛岡方面へ、国道4号を車で15分ほど北上すると、東西に胆沢川が流れている。
大谷が父・徹さんの手に引かれるようにして河川敷のグラウンドに足を運んだのは小学2年時の晩秋、辺りのススキが茶色に色づき始めたころだった。
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週末のグラウンドでは水沢リトルの選手たちがプレーしていた。大谷は自分と同じ小学生たちが、緑と青やオレンジの色のユニホームを着て硬式ボールを追い掛ける姿を食い入るように見つめていた。
「おまえもチームに入ってみるか?」
徹さんに水を向けられた大谷は「うん、入る」と二つ返事で答えた。
7歳年上の兄は中学時代、スポーツ少年団で野球をやっていた。大会があれば家族で見に行っていたから、そもそも野球に興味を抱いていたのだろう。
大谷が水沢リトルに入ると同時に、「自分も勉強させてください」と徹さんもチームのコーチを買って出た。大谷が中学生になって一関シニアに入ると、徹さんはそこでもコーチを務めた。つまり花巻東高に入学するまでの7年強、大谷は父親から野球の基本を学んだことになる。
徹さんは野手出身。投手に関して言ったのはきれいなフォームで投げること、ボールにしっかりと指先をかけた縦回転のボールを投げることくらい。しかし、打つことにかけてはかなり熱心に教えたという。内角は右方向、外角は左方向へ打つこと。打つときに体が開かないようにすること。この2つは小学生のときにマスターした。極力、早いカウントから打ちにいくことも父親の教え。追い込まれると、甘い球がくる確率は下がるからだ。
■コーチの助言はニコニコしながら右から左
左右に打ち分けることと、早いカウントから打ちにいくスタンスはいまも変わらない。
例えば昨季放った34本の本塁打のうち、右翼や右中間方向へは14本、あとの20本は中堅から左翼方向だった。初球をとらえたのは34本中、最多の8本。計13本を2球目までに仕留めている。
右投げ左打ちは徹さん自身の体験に基づいた知恵だった。かつては自分がそうで教えやすかったし、当時から俊足だった大谷にとって一塁まで一歩近い左打ちは有利だと思ったからだ。
野球少年が、まず目指すのは投手。いずれ投手をやることもあるのだろうが、いつかはくじけるという読みが徹さんにはあった。それで左打ちを仕込んだものの、プロ野球はもちろん、メジャーでも二刀流を貫くとは思わなかった。結果として肩肘を含めた商売道具の右腕を、左打席で死球の危険にさらすことになったのは誤算だろう。
「とにかく打つことにかけては、高卒ながら即戦力だった。驚いたのはスランプが極端に短かったこと。コーチの助言にはニコニコしながら“ハイ”ってうなずくんだけど、おそらく右から左に聞き流してたんじゃないかなぁ(笑)。コーチの助言を忠実に実行したって話は聞いたことがないから」とは日本ハムOB。
あくまでも父親の教えをベースに、自分で考えて対処したようだ。