上から目線でいると見えない真実がある
「無罪」大岡昌平著
大岡昇平といえば戦争文学が有名だが、推理作家協会賞を受賞するなど、実は多くの推理小説・裁判小説も書いている。
特にその裁判シーンのリアリティーは、小説が大学の法学のテキストに用いられるほど評価が高い。その大岡の裁判小説の原点が「無罪」だ。英米の謎の残る殺人事件の裁判記録を小説化した13編から成るが、陪審員制のこれらの裁判は、裁判員制度の導入された今日、これが日本の裁判員裁判だったらと考えさせずにはおかない。収録の「妻の証言」はその一作だ。
イギリスの小さな村で、村一番の美人ローズ・ハンセントが、咽喉と胸に傷を負って寝衣のまま死んでいるのが発見された。警察の疑いは、1年前彼女と噂のあったウイリアム・ガードナーに向けられ、彼は薄弱な証拠に基づいて起訴される。先入見に動かされやすい小さな村では世論は彼を犯人と決めつけ、裁判はいくつかの状況証拠と、証人たちの悪意ある証言によって不利に進行するが、弁護側の証人としてガードナーの妻が証言台に立つと、事件は全然別の様相を呈しはじめる。
村人の陰口の矢面にあえて立ち、「全世界に反しても夫の無実を信じて疑わなかった」彼女は、一つ一つ、徹底的に反証する。その結果、12人の陪審員のうち11人は有罪に投票したものの、ただ一人だけがガードナーの無罪を主張し、「被告を有罪と確信できるようなことを、何も聞かなかった」と譲らない。そして、ガードナーの妻の英雄的信頼の物語がイギリス中に広まり、大きな町で開かれた第2回の公判では一転、ガードナーは青天白日の身となる。作品は、素人の陪審員だったからこそ妻の証言に真実性を認めた。安定した社会的地位に守られた裁判官には無理だったろう、ということを指摘して結ばれている。
イジメや内部告発の問題でも同じだが、たとえたった一人でも、自らの地位や立場を危うくするのを恐れない証言には、そこに「真実」を感じ取ることができる――。
それがいかに難しいことかも、庶民なら知っているだろう。