第1話 じゃりン子チエは神 <4>
今度こそ日本代表の座をつかんでほしい
「美岬ちゃん。千春のことが心配なのはよく分かるけど、今は競技に集中しなさい。この合宿があなたの一生を決めるのよ」
昨年末、美岬はロシアでの代表合宿に向けて日本を発ったが、その前日、莉乃は三男もいるリビングルームで美岬を励ました。
「あなたがオリンピックに出場したら、千春も勇気づけられるんだから。有名になることを恐れちゃだめ。もっともっと活躍して有名になれば、千春をからかう子もいなくなるんだから」
新体操の団体は5名の選手によって演じられる。合宿には8名が呼ばれていて、美岬の実力は5、6番手だった。ただし見栄えを重視するなら、5名の中に入る可能性は十分ある。だから、「この合宿があなたの一生を決めるのよ」という莉乃の言葉はあながち誇張ではなかった。しかし、いくら千春が学校に行っている時とはいえ、なんという露骨な励まし方をするのだろうと、三男は情けなくなった。
新体操の団体に求められるのはチームワークだ。5人の一糸乱れぬ動きが感動を呼ぶのであって、目立ちたいならソロで戦えばいい。
莉乃がそうしたことを分かっていないはずはないが、いざとなると走り幅跳びの選手としての考え方になってしまうのだろう。それとも、美岬が有名になって舞い上がっているのだろうか。おそらくその両方なので、そこに千春がからかわれたことまで加わり、冷静さを失っているのだと、三男は妻の言動を最大限好意的に解釈しようとした。
「美岬ちゃん。あなたの中に眠っている激しい感情を呼び覚まして、なんとしてもメンバーに入るのよ」
三男は、莉乃がさっきから自分を見ないようにしているのに気づいた。その瞬間、鉄棒から落下した大けがが原因とはいえ、一度も就職することなく専業主夫として生きてきたことがかつてなく身に応えて、三男は膝においていた両手を握りしめた。
莉乃が美岬に世知辛いことばかり言っているのも、女性でありながら一家の大黒柱としてフルタイムで働き続けてきたストレスのせいなのだと考えると納得がいく。新体操を始めた美岬をあれほど熱心にサポートしたのも、美岬の活躍がいつか家計の支えになると考えてのことだったのだ。
三男は激しく落ち込んだ。しかし、自分も決して楽をしてきたわけではない。結婚する前は料理も洗濯も裁縫もしたことがなかったのに、必要に迫られて懸命にこなしてきたのだ。母乳が出ない男性の身で子育てをするのが、どれほど大変だったことか。
それでもやはり、女性でありながらフルタイムで働き続けてきた莉乃の負担のほうが大きかった気がする。いや、しかし……。
頭の中で自問自答を繰り返していると、「おとうさん」と美岬に呼ばれた。黒目がちな目がいつにも増して潤んでいる。
「いいかい、美岬。ロシアでも、千春のことをうんと心配するといい。でもね、千春はとても強い子だ。きっと、今回のことも自分の力で乗り越えて、さらに強くなっていくに違いない。美岬も千春に負けないように頑張ってきなさい」
「はい。分かりました」
そうして美岬はロシアへと旅立っていった。
三男は自分の娘が日本代表候補に選ばれたことが誇らしかった。しかし、本当に大変なのはここからだ。前回のロンドン五輪も直前のけがで出場できなかったのだから、今度こそ代表の座をつかみ取ってほしいと、三男は心から願っていた。 (つづく)