「コロナ時代のパンセ」辺見庸著/毎日新聞出版
コロナ禍で消毒を求められる。それを拒否するほどの“勇気”もないから、手指を洗い、うがいをする。
しかし、本来は毒というものは生きていく上で必要なものではないのか。それを消してしまって、あるいは消したつもりになって、生存できるのか。毒消しの作業は、いつか、精神にも及んでいくだろう。いや、精神こそが萎縮を迫られるのだ。
ほぼ同い年の辺見が共感を寄せる人間は、毒を好む者たちである。毒消しを好まぬ人たちだと言い換えてもいい。
船戸与一のわざとらしくなさを愛し、西部邁の孤愁を理解する。私も2人をよく知るだけに、彼らについて書いた辺見の一筆描きを繰り返し読んで、こうした出会いがあるから生きていられるんだよなあなどと感傷的になった。
「わけがあって1964年のことを調べていたら、想い出の風景やにおいが次々にわきでてきてとまらなくなった」とも辺見は書いている。無機質に見えて辺見の文章は無機質ではない。においを発している。
辺見が嫌うのは、無機質な分析をして、恥というものを知らない人間である。その筆頭に、おこがましくも、自ら「思想家」を名乗る内田樹がいる。あるいは、ことさらに有機的な形容で巫女のお告げのような言の葉を紡ぐ石牟礼道子もその一群に入る。
共通するのは「天皇主義」宣言であり、天皇制の受容である。
「明仁天皇とその配偶者の人気はいまや絶大である。その波にのるかのように、かつて天皇制をあれほどきらっていた作家や知識人、政治家らがこのところ、つぎつぎに宗旨がえしつつある。あたかも明仁天皇夫妻を慕うことが、ゴロツキ集団とみまがう自民党政権否定につながるとでも言いたげなのである」
内田を批判して辺見はこう書き、それを思想の劇的退行と呼ぶ。
私も別のところで内田の元号擁護論を排して、リベラリストを自称するなら、1946年1月12日号の「東洋経済新報」で「元号を廃止すべし」と主張した石橋湛山の爪のアカでも煎じて飲め、と断罪した。
辺見は「饒舌のなかには言葉はない」として、口をつぐんだままやれる仕事を探し、50代も半ばを過ぎていたのに日雇い労働者になろうとしたという。それだけに辺見の言葉は肉体から離れない。
★★★(選者・佐高信)