「カティンの森ヤニナ」小林文乃氏
「カティンの森のヤニナ」。外国のおとぎ話を思わせるタイトルだが、独ソ戦のさなかに非業の死を遂げた女性飛行士を描いたノンフィクション。彼女の祖国ポーランドの歴史紀行でもある。
「カティンの森事件」とは、第2次世界大戦中に、ソ連の捕虜となっていた2万数千人のポーランド人将校が大量虐殺され、埋められた事件をいう。当時、ドイツに占領されていたスモレンスク近郊のカティンの森で見つかった遺体の山の中に、たったひとり、女性の犠牲者がいた。空軍パイロット、ヤニナ・レヴァンドフスカ、32歳。そのことを知った著者は、ヤニナの存在に強く引かれた。
「以前から独ソ戦の女性兵士に関心があって、調べていたんです。それに、私は飛行機が大好きで、セスナで初心者教習を受けたこともあるので、あの時代の女性がなぜパイロットに? という興味もありました」
ヤニナのことをテレビのドキュメンタリー番組にしたいと思い、企画書を書いて持ち歩いたが、誰も興味を示してくれない。第一、情報が少な過ぎた。「これはもう、現地に行くしかない」と、2019年6月、著者は単身ポーランドに旅立った。
「ポーランド人にとって、日本は果てしなく遠い国なんです。そんな国から1人でやって来て、ポーランド人もほとんど知らない女性のことを一生懸命に調べている。その熱意が伝わったのか、人に会うたびに新しいつながりが生まれて、次の扉が開かれていきました」
ヤニナゆかりの地を訪ね、そこで出会った人たちの言葉を一つ一つすくい上げていくうちに、壮大なファミリーヒストリーが浮かび上がってきた。ヤニナの父ムシニツキ将軍は大ポーランド蜂起を指揮した総司令官。10歳下の妹アグネシュカはワルシャワでレジスタンスに加わり、ナチスに虐殺された。パイロットだった夫ミエチスワフはイギリス軍と共にドイツとの空中戦を戦い、戦後は共産主義化した祖国に戻ることを拒否してイギリスで生涯を終えた。
「ファミリーヒストリーが、そのままポーランドの歴史になってしまう。ポーランドという国を象徴するすごい一族だと思います。3部作にしたかったくらい(笑)」
ヤニナへの旅は、東欧の複雑な歴史に分け入る旅でもあった。
「今のウクライナ戦争も、長い歴史の流れの中で起きたことです。悪い大国が急に小国に攻め入ったという単純な構図ではありません。それを少しでも知る手がかりになったらいいな、と思います」
陰惨な事件を扱った作品なのに、読後感は不思議なほど爽やかだ。歴史の闇に葬られていた1人の女性の息づかいが確かに聞こえてくる。
「私が書きたかったのは、女性が職業を持つことさえ難しかった時代に、空に憧れてパイロットになり、自分が選んだ道を精いっぱい生きた1人の女性がいたということです。この本を閉じたとき、強く前向きな気持ちになっていただけたらうれしいです」
(河出書房新社 2552円)
▽小林文乃(こばやし・あやの)1980年生まれ。ノンフィクション作家、出版プロデューサー。BSフジドキュメンタリー番組「レニングラード 女神の奏でた交響曲」を企画・プロデュース。著書に「グッバイ、レニングラード ソ連邦崩壊から25年後の再訪」がある。