「音のない理髪店」一色さゆり氏
「音のない理髪店」一色さゆり著
デビューから3年、本を出せないまま焦る作家の五森つばめが、編集者・駒形と会うシーンから物語は始まる。
持参したプロットから「耳の聞こえない親を持つ子」の話を書くことを勧められたが、実は話のモデルは自身の祖父と父だった。意味があるテーマだからこそ躊躇していたことに気づいたつばめは、疎遠だった親族への連絡を手掛かりに取材を始める──。
「いつかコーダ(耳が聞こえない、聞こえにくい親の元で育った子ども)のことを書いてみたいと思っていて。徳島にいた私の祖父は、徳島のろう学校理髪科第1期卒業生のろう理髪師であり、私の父がコーダだったこともあり、気になっていたテーマだったのです」
本書は、孫娘によって明らかにされる日本初のろう理容師・正一の半生をベースに、大正から現在に至るろう者のリアルを丁寧に描いた物語。取材を重ねるつばめの物語を軸に、正一の息子でつばめの父親の海太、施設で暮らす祖母の喜光子、婿養子を取り正一の理髪店を継いだ伯母の暁子、聞こえる人と聞こえない人の懸け橋になる活動をする青馬らのエピソードが重ねられていく。
「3世代にわたってろう者を支える人々の視点を織り込もうと思っていました。正一のそばに居た複数人の視点から、時代を行き来しながら正一の人物像を浮き彫りにしています。あくまで小説なので私は主人公のように親族に話を聞く方法はあえてとらなかったのですが、手話教室に通ったり、徳島のろう学校でお話を聞いたり、資料を読んだりしながら事実をベースに想像を膨らませながら物語にしていきました」
作中、つばめの取材によって戦争時代から現在に至るまでに、ろう者やその家族が周囲からどんな扱いを受けたかが明らかになる。ナチスの断種法をモデルにした「国民優生法」や「優生保護法」の存在にも行きあたり、主人公がショックを受けるシーンも登場する。
「差別や偏見を書くことは前提ですが、それだけに終わらずに、人と人との間にある壁を諦めずに乗り越える人たちの愛や優しさを書きたかった。人種や特性や性別の違いでわかり合えないこともあるし、属性が同じでもわかり合えないことはありますよね。モチーフとしてコーダを使いましたが、人と人の間にある壁の話でもあるのです」
物語には、つばめに働きかけた編集者や、正一を励ました学友、つばめの本心を知りたいと踏み込んでくる人など、壁越えにトライする愛ある人たちがたくさん登場する。言葉も差別もなしに人々が自由に踊り出す終盤の阿波踊りのシーンは圧巻で、どんなに隔たりがあっても、伝え合うことを諦めない人たちの熱い思いが伝わってくる。
「大事な局面で言葉にできずに黙ってしまったり、言葉にしても他者とわかり合えなかったりということはごく普通にあり得ること。なので、本書はろう者やコーダに限定した話ではなく、普遍的な物語として書いたつもりです。また何らかの困難を背負った人が身近にいないという人は多分いなくて、本を読んで『実は私も』『私の家族も』と打ち明けてくださる方がたくさんいました。悩んでいる方にも、ぜひ手に取っていただけたら」 (講談社 1980円)
▽一色さゆり(いっしき・さゆり) 1988年京都府生まれ。東京芸術大学卒。香港中文大学大学院修了。2015年「神の値段」で第14回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞。「コンサバター 大英博物館の天才修復士」「カンヴァスの恋人たち」など著書多数。