【追悼】西田敏行さんは情熱の“全身俳優”…後年は病との闘いとの連続、幾度も引退危機に
最期まで現役の、俳優人生だった。このほど都内自宅のベッドで亡くなった西田敏行さん。享年76。映画「釣りバカ日誌」「学校」シリーズなど主演作は数え切れず、歌手としても「もしもピアノが弾けたなら」の大ヒットで、NHK紅白歌合戦に出場したこともある。2018年に「旭日小綬章」にも選ばれた国民的存在であった。
いつも明るく、ほほ笑みを絶やさなかった西田さんだったが、後年は病との闘いの連続だったようだ。01年に首の骨が変形し手足のしびれなどが起こる頚椎症性脊髄症を罹患。膝も悪くし、03年には心筋梗塞で緊急入院、生死の境をさまよった。16年には自宅ベッドから転落し頚椎亜脱臼に。その手術後、胆のう炎も発症し、手術で胆のうを摘出した。糖尿病や高血圧の持病もあり、病院通いを続ける姿から幾度も引退危機が取り沙汰された。
■車椅子のままドラマ出演
しかし、それでも現場に挑み続けた。21年に出演したTBS系ドラマ「俺の家の話」での車椅子のシーンは、西田さんの歩行がおぼつかないための安全策だったとされた。休憩中も車椅子に乗ったままで、共演の長瀬智也に支えられて歩くシーンでは、よろけて転倒寸前だったらしい。
ベテラン芸能記者の青山佳裕氏はこう言っていた。
「奥さまの寿子さんは死ぬまで現役の役者であり続けることが夫の本望であると理解されているので、きつい現場へと臨む西田さんを励ますことこそあれ、止めることはないと思います。もう十分すぎるほどのキャリアを積み重ね、蓄えの心配など無用でしょう。しかも、今回はリアルな西田さんとかぶり、老醜をさらすようなシビアな役どころとも言える。それでも仕事を選んだということだと思います」
寿子さんは元女優で、西田さんは劇団「青年座」で出会い、一目ぼれ。下積み時代から西田さんを支えるためにアルバイトを掛け持ちし、74年に結婚するとともに家に入り、2女を育て上げた。そんな内助の功もあって、俳優の道を突き進んだ。20年には約2600人の俳優からなる協同組合「日本俳優連合」理事長として、新型コロナ感染症の対策に対し、内閣府と厚労省にこんな要望書を出した。
「私たちにとっては仕事と収入の双方が失われ、生きる危機に瀕する事態。どうか雇用・非雇用の別のないご対応で、文化と芸能界を支える俳優へご配慮下さいますよう」