サクラクレパス 西村彦四郎社長(1)クレパス、クーピー…自由画運動を切り拓いた創業100年企業
クレパスやクーピーペンシルを幼少期に手にしたことがある人がほとんどだろう。2021年に創業100年を迎えた「サクラクレパス」。西村彦四郎社長に、サクラクレパスの変遷と、社長に就任した2014年から約10年の歩みを聞いた。
「明治時代、海外から美術教育が輸入されました。そのときは、教科書通りに描く“臨画”というのが美術教育の主流でした。大正時代に入り、大正デモクラシーの時代の中で、ヨーロッパで勉強して日本に帰国した美術教育運動家の山本鼎氏が、教科書通りに描くのではなく、自分の思ったことを自由に表現する美術教育、いわゆる自由画教育運動を始められたのです。その中で、自由画運動の画材としてはクレヨンが適しているとなったのですが、当時、クレヨンは輸入品のみで、非常に高価なものでしたので、先進的な実践をされる一部の学校でしか使用されていなかったんです」
自由画運動を広く進めていくには、品質が良く、低価格のクレヨンが必要となり、1921年、サクラクレパスの前身となる「日本クレィヨン商会」が設立され、クレヨンの製造がスタートした。
四季を通じて一定の硬さを保つことが難しかった
「元々、会社は東京だったのですが、関東大震災の影響で原材料が手に入らなくなり、大阪に移ってきたという経緯があります。当時はクレヨンを製造していたのですが、もっと品質の良い画材が作れないかということで、クレパスが発明されました。
1925年発売当初のクレパスは寒暖の影響を受けやすく、四季を通じて一定の硬さを保つことが難しかったんですね。そこで、“かたい・夏用”、“やわらかい・冬用”の2種類を発売しました。ただ、流通時の時期ズレによる不具合などが出て、すべての商品を返品で受けとり、会社は倒産しかけました。その後改良を重ね、1928年にオールシーズン使用できるクレパスが発売されました」
その翌年に「株式会社櫻商会」に組織変更を経て、第2のステージへと歩みを進める。
「サクラクレパスと西村家との関わりは、私の祖父にあたる西村齊次郎からになります。先ほど述べた、会社が一度倒産しかけた際に、祖父が支援したのがきっかけです。1929年に、当初は取締役として入り、その後、1937年に2代目社長となりました」
当時の営業活動は、学校に商品を売り込むのではなく、学校へ行き、教師に自由画運動を啓蒙し、広めていくことだったという。
「当時の資料を見ると、営業部という名称ではなくて、美術部っていう名称なんです。活動も学校訪問に重点をおいていました。流通に関しては、戦後大きく形態が変わりました。それまで全国で1社の総代理店を通じて販売していたところを各都道府県に1軒ずつ代理店をおく、一県一代理店制度という形をつくり、売り上げを伸ばしていったのです」 =つづく
(ジャーナリスト・中西美穂)