NBAドラ1八村 故郷富山の恩師が語る少年時代と“世界”発言
日本時間21日に行われた米プロバスケットボールNBAドラフトで、八村塁(21、ゴンザガ大)が1巡目9位でウィザーズから指名を受けた。日本人がNBAで1巡目指名されるのは史上初の快挙。年俸は指名順で基準額が設定されており、最大約4億9100万円を手にする。父は西アフリカのベナン出身、母は日本人。八村はどんな少年だったのか。生まれ育った富山の小、中学校時代の恩師に聞いた。
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指名から2時間半後、ニューヨークにいる本人から中学時代の恩師で富山市立奥田中バスケ部コーチの坂本穣治さん(59)の携帯電話に着信があった。八村は「やりましたよ。全てはコーチから始まりました」と涙声だったという。坂本コーチがこう明かす。
「八村に『NBA』という言葉をかけたのは、入部初日。ボールを片手で掴めたから、周りの子たちも『わ~!』となって盛り上がったので、『NBA並みだね』と言いました。周りに『凄い』と言われ、調子に乗ることもあったけど、もう一人、馬場(雄大=現・アルバルク東京)というサラブレッドもいて、切磋琢磨する環境はありました」
現在は206センチ、106キロ。それでも昔から体力があったわけではない。坂本コーチが続ける。
「入部後、見ていたらすぐバテるし、持久力があまりないように感じました。そこで病院に連れて行って精密検査をしたら、ヘモグロビンの数値が低かった。だから途中で代えて休ませ、また途中から戻してというふうにして、無理をさせない起用を続けました。そのあと、鉄分を補給するために、ご家庭でレバーとかひじきを食べるように指導して、食事から改善していきました。八村は中学時代、一度もケガをしていないんですよ」
本格的にバスケットボールを始める前はどんな小学生だったのか。富山市立奥田小5、6年生時の担任だった葛島千秋先生(54=現・豊田小)がこう言う。
「受け答えとか見ていると凄く成長しましたね。『世界に出て行くなら英語を勉強しられ(しなきゃね)』とよく言ったのですが、今では英語がペラペラで、もう別人(笑い)。あの頃は気分に浮き沈みがあって、うまくいかない時は周囲に八つ当たりをすることがあって、友達とうまくいかない時期もありました」
当時は野球と陸上を掛け持ちしていた。5年生で陸上100メートルの大会に駆り出されると、富山市内大会、富山県大会を勝ち上がり、県代表として全国大会に出場した。
葛島先生が続ける。
「6年生で身長は170センチと大きかったし、見た目は外国人。能力もあるので、富山のあの辺では有名人でした。大会に行くと、『塁だ、塁だ』と他の子たちが集まってくる。レース前で緊張しているところに、知らない子たちに囲まれたら集中できないじゃないですか。嫌だろうなと思ったら、お母さん(麻紀子さん)は『いいんです。みんなに知ってもらうのは、いいことですから』って、あっけらかんとしている。お母さんがそういう考えだから、塁も注目されることを全然気にしていませんでした。周りがどんな状況だろうと動じないのは、あの頃からだと思います」
■ボルトに憧れ「オレは世界に行く」
当時から自信家だった。
「陸上は伸び悩みましたが、根拠のない自信があって『オレは世界に行く』ってよく言ってました。当時は100メートルの(世界王者)ボルト選手に憧れていたようです。20歳の成人式の日に取り出すためのタイムカプセルに目標を書く時、『20歳の時は富山にはいないから書かない』って言い張ったこともありました」と言う葛島先生は、体育の授業でバスケットボールに夢中になる八村の様子を見てこう感じたという。
「楽しそうだったんです。性格的にゲーム性があって、すぐに結果が出るものが向いている。100メートルのようにコンマ何秒を縮めるために、血のにじむような努力をするのは性に合わない。バスケは何得点とかすぐに結果に出るでしょう。何より余裕を持ってプレーができていた。友達にパスを回してゴールのお膳立てをしたりという配慮ができた。能力は高いのに、野球や陸上ではそれができなかった。それで友達とぶつかったんですが、バスケなら大丈夫だと思ったので、卒業時に『塁君はバスケが向いています』とお母さんに伝えました」