若林、杉浦はプロ入りを断念して五輪に野球人生を懸けた
国際大会を戦うために海外遠征していると、アクシデントはつきものだ。
宿舎、食事、球場の状態など、試合を戦う以前に、日本とは異質な環境に適応しなければならない。
何があっても驚かない、ということを常に意識してはいたが、どうしてもコントロールできないこともある。1992年バルセロナ五輪直前のイタリア・コロンブス野球大会(日本、キューバ、スペイン、イタリアの4カ国が参加)では、当初は1回戦総当たりで予選リーグを戦い、その後に順位決定戦を行うと聞いていた。
■野手の佐藤と山本が投手登板
しかし、いざ現地に到着すると予選が2回戦総当たりに増えていた。そうなると、バルセロナ五輪で最大の強敵となるキューバと、予選で2試合、順位決定戦で1試合と、最大3試合をする可能性が出てきた。
これにはさすがに困った。投手を試したい気持ちがある一方で、手の内をさらすわけにもいかない。投手がより万全な状態で五輪を迎えるため、本意ではなかったが、私は大会開幕前、野手の佐藤真一(たくぎん→ダイエー)と中本浩(松下電器)に「試合で投げてもらうから、そのつもりでいてくれ」と告げた。苦肉の策だ。