松坂大輔「指導者として戻りたい」と恩師に明かす ボストン充電後、西武は“次の次”監督オファーへ
「平成の怪物」が静かにグラブを置いた。
19日、所沢の球団事務所で西武の松坂大輔(41)の引退会見が行われた。引退のきっかけはコロナ禍。「去年の春先に指先のしびれが強く出るようになった。コロナ禍の緊急事態宣言でトレーニングも治療もままならず、症状が悪化した」と話し、「今年4月にブルペン投球をした際、右打者の頭の方にボールが抜けた。ちょっとどころじゃなく、とんでもない抜け方。その1球でブルペン投球が怖くなった」と、心情を吐露。7月7日の引退発表から会見が遅れたことについては、
「当初はすぐ会見をする予定だったけど、なかなか自分の中で引退が受け入れられなかった。発表したのに気持ちが動いていた。そんな中で会見するのも……と思い、球団に『もう少し待ってください』と。でも、引退発表後も『まだやれそうだ』と思えた日は一度もなかった」と語った。
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松坂は横浜高3年時の1998年に甲子園春夏連覇を達成。西武時代は「平成の怪物」として99~2006年の8年間で108勝を挙げ、ポスティング制度を使ってボストン・レッドソックスに移籍。1年目から15勝12敗と活躍し、チームのワールドシリーズ制覇に貢献。翌08年も18勝3敗の好成績を挙げた。
この日の会見で「最後に松坂らしいと言える投球をしたのは?」という質問に、「08年くらいかな」と話した。
■オークランドのケガ
「08年の5月か6月、オークランド遠征中にロッカールームからブルペンに向かう途中で足を滑らせてしまって、とっさにポールみたいなものを掴んだ。その時に右肩を痛めてしまった。そのシーズンは大丈夫だったけど、オフに『いつもの状態じゃないな』と。これ以降は自分が求めるボールは投げられず、肩の状態維持に必死でその時その時の最善策を見つける作業ばかりしていた」と、秘話も語った。
引退登板ではMAX118キロしか出せず、横浜高の後輩、日本ハム・近藤に四球。力尽きるようにユニホームを脱いだ。
気になるのは今後だ。西武としては指導者として迎え入れたいだろうが、この日の会見の様子だと、すぐに実現するとは思えない。
■家族に関する質問に涙
松坂は会見で3度、涙を流した。そのいずれも家族に関する質問だ。引退を決断するにあたって家族に相談したのか? という質問に「うーん、だから会見したくなかったんですよね」と陽気に振る舞い、「息子がちょうどいて」と言ったものの、その後はしばらく言葉が続かない。涙をこらえきれず、はなをすする音、ため息だけがマイクを通して流れた。
その後も家族への感謝や夫人の苦労を語ったときは、同様に目をうるませ、言葉を詰まらせた。
「家族と過ごす時間を増やしながら、違う角度で野球を見ていきたい。最近、(ボストンの)家の庭で野菜を育てたりしてるので、家族みんなで楽しみながらやっていきたいですね。大したことじゃないかもしれないけど、そういうことをさせてやれなかったんで」
だとすれば、まずは家族優先。再び単身赴任となるコーチ業は選ばないだろう。
ボストンからの花を写メ
「違う角度で野球を見ることと、ボストンで家族と過ごすこと。アドバイザー的な立場でレッドソックスや傘下の若手を指導するのであれば、2つを両立させることは可能です。この日は親交のある石井貴楽天投手コーチ、デニー友利巨人海外スカウトらとともに、レッドソックスからも花が届いていた。松坂もそれをうれしそうに写メしていましたからね。ボストンでは3年目以降、低迷しましたけど、ワールドシリーズ制覇の功労者に敬意を表したのでしょう」(球界関係者)
西武には次期一軍監督は松井稼頭央現二軍監督、その次は松坂という青写真があるという。つまりボストンでたっぷり充電した後、正式にオファーを出すつもりのようだ。
横浜高の部長として松坂の才能を見いだし、徹底的に鍛え上げた小倉清一郎氏はこう言った。
「7月に引退報告の電話をもらい、『もう完全に無理です。引退します』と。『小倉さんには一番、お世話になりました。本当にありがとうございました』と言ってくれました。右手の状態が良くならなかったみたいですね。『もう十分に稼いだんだから、野球界からすっぱり足を洗って、のんびりしろよ』とねぎらったら、『いや、ボクは野球でここまでこさせてもらいました。野球界に育てられたので、指導者として戻ってきたい。何らかの形で野球に携わりたい』と言っていた。当面は米国で暮らしている家族とノンビリするんじゃないか。しっかり充電したら、その後は監督など指導者として活躍して欲しい。長い間、お疲れさま。ありがとう、と言いたいですね」
会見では心残りを聞かれ、「(入団当時に西武監督だった)東尾さんに優勝してお返ししたかったなと。それがやり残しですかね」と話した松坂。その無念を西武監督として晴らせる日は、きっとやってくる。