新庄との腕相撲でまさかの敗戦…手首の強さと握力はずぬけていた
浜崎満重(元西日本短大付高監督)#2
「新庄が2年生くらいだったと思います」
西日本短大付高(福岡)で監督を務めた浜崎氏が懐かしそうに振り返る。
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「よく、寮の風呂で力が強そうな教え子と腕相撲をやったんです。私もまだ40歳くらいだったし、腕っぷしには自信があった。ただ、新庄には負けてしまいましたね(苦笑い)。私が負けたのは、新庄とあと一人だけでした」
湯船につかりながら、浴槽の縁で肘を突き合わせる。他の部員たちも浴室で固唾をのんで見守った。当時は華奢だった新庄が接戦の末に浜崎氏を倒すと、大喝采が巻き起こった。
「新庄は勝った瞬間、ヨシって感じで小さくガッツポーズをしていましたね(笑い)。普段、私にいじめられているから、コノヤローと思って立ち向かってきたんでしょう。何人もの教え子と腕相撲をやりましたけど、新庄は手首の強さと握力がずぬけているなと思いましたね。完敗でした」
浜崎氏はグラウンドでは選手に厳しく接したが、寮生活については口を出さなかった。個人の時間を尊重したかったからだ。新庄は寮では真っ赤なTシャツを着るなどして目立っていたという。
浜崎氏は前回、「西日本短大付高時代、後にも先にもプロ入りを勧めたのは新庄だけだった」と言った。なぜだったのか。
「教え子の進路については、先々を考えて大学か社会人を経由してからプロへ、という方針を持っていました。ただ、新庄は新日鉄堺の教え子を含めても、肩の強さは飛びぬけていた。送球コントロールさえ身に付けば、プロで十分にやれる。しかもプロでは外野の定位置が深くなり、彼の長所が生きると思っていました。本人も『プロに行きたい』と言うので、私は『プロ一本で行きなさい。もしダメだったら、(造園業をやっていた)親父さんの跡を継げ』と言いました。阪神に5位指名され、広い甲子園球場であれば一層、実力を発揮できるなと」
「とにかく目立つ選手になれ」
浜崎氏は新庄が福岡をたつ前、こう告げた。
「一軍のレギュラーになるため、最低3年は死に物狂いでやりなさい。そして、レギュラーを掴んだら、とにかく目立つ選手になれ。プロ野球は夢を売る商売。ファンを喜ばせるために、どんどん目立ちなさい。プロ入り後の3年間と、それ以降はしっかり使い分けるんだぞ」
その助言通り、新庄は3年目にレギュラーを掴んだ。その後のエンターテイナーぶりは言うまでもない。
浜崎氏にとって、教え子のプロ野球監督就任は、尾花高夫(横浜=現DeNA)に続いて2人目。
日本ハムの監督就任以降、独特な指導や方針を掲げる新監督へ、「エンターテイナーなところがあるし、どんな野球をやるのか、楽しみですね」とエールを送った。 (この項おわり)
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▽浜崎満重 1948年生まれ。79年、社会人新日鉄堺(大阪)の監督に就任、4度の都市対抗、5度の日本選手権出場へ導いた。87年に西日本短大付高(福岡)へ移ると、92年夏に全国制覇。2004~08年に延岡学園(宮崎)で監督。06年春夏に甲子園出場を果たした。