元阪神球団社長が明かす 新庄剛志退団騒動の一部始終「マスコミには不信感を持っています」
野崎勝義(元阪神球団社長)#1
2000年のシーズン終盤のことだ。
阪神タイガースのフロントは、水面下でFA権を取得した新庄剛志と残留交渉を行っていた。
当時28歳の新庄はこの年、自己最高の打率.278、28本塁打、85打点をマーク。チームに欠かせない主力選手に成長していた。
■「優勝を争えるチーム」
彼にはこんな環境でプレーしたいという希望があれば教えてもらいたいと尋ねたが、「自分が6番を打てる戦力のある球団」「優勝を争えるチーム」と取り付く島がない。
当時は野村監督の2年目。前年までの5年間は最下位4回で、あとの1回も5位。この年も最下位だったから、とてもじゃないがタイガースは当てはまらない。
だからといって看板選手の新庄を、おめおめと他球団に引き渡すわけにはいかない。
他球団の話を聞くことをせず、FA宣言をしたうえでタイガースに残留することを前提に希望する条件を言って欲しいと水を向けても、「5、6球団から話が来ていて、その中で自分はメジャーと横浜に興味を持っています。メジャーは野手としてだれも挑戦していないので少し怖いが、1年でも許されれば行きたいという気持ちがあります。せっかくのFAです。選手であれば、他球団の評価も聞いてみたいと思うのは自然なことでしょう」と、にべもない。
■「父とはFAについてひと言も話していない」
スポーツ紙に「息子はタイガースで選手生命を終えるべき」との父親のコメントが載ったことを引き合いに出しても、「父とはFAについてひと言も話していない。それよりマスコミには不信感を持っています。他球団に行けば、これほど書かれないと思う」と言う。
親しい人には「阪神にいると後援者や周囲の状況が大変で、野球に集中できない」「野村監督には感謝しているが、阪神にはいたくない」と漏らしていたそうだから、彼はとにかく阪神を出ることが前提だったように思う。
「私生活も含めて細大漏らさず書かれるのが嫌でたまらない」とも話していた。
人を介して売り込み
新庄が「興味を持っている」と言った横浜はしかし、この年のオフに転機を迎えていた。主砲のローズが金銭で折り合わずに退団。戦力がダウンしたことに加え、指揮官が権藤博監督から森祇晶監督に代わった。新庄の中では、これが大きかったのだろう。「森監督の管理野球では力を発揮できない」と言ったともいう。
新庄の移籍先として次に浮上したのがヤクルトだった。
オフに外野手のラミレスを獲得。稲葉、真中がいて外野は埋まっていただけに、新庄は人を介して自分を売り込んだようだった。
当時、わたしが懇意にしていたヤクルトの田口代表は「ウチから取りにいくんじゃない。(新庄サイドから)売り込みがあったんだ」と話していた。=つづく
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▽野崎勝義(のざき・かつよし) 1942年、大阪府東大阪市出身。阪神電気鉄道株式会社・航空営業本部旅行部長を経て、96年、阪神タイガースに球団常務として出向。01年から04年まで球団社長を務めた。