オリ1位・曽谷龍平が書きためた「野球ノート」の中身 リハビリ期間も毎日1ページびっしり
「私はコーチをすることになりましたが、息子たちに特別な指導をしたことはありません。チームの練習日に、他の子と同じように教えただけ。心掛けたのは個々が上達することとケガをさせないこと。書店に行ってはトレーニング教本を買い、長く野球をやってもらいたいという思いでグラウンドに立っていました。家で野球中継を見る際は私なりにプレーの解説をしていたくらいで……。中学生になったら指導はすべて志貴ボーイズさんにお任せしていました」(博一さん)
■伝説スカウトの予言
腰のケガを乗り越えた中学3年、曽谷はオリックス杯の決勝のマウンドに上がるまでに成長を遂げた。一般的に有望選手なら2年秋ごろから進路が決まり始めるが、明桜高に内定したのは3年夏だった。本人の希望は「私学」というくらいで、それ以上の明確なビジョンがなかったのが原因だ。
「本人もいろいろ考えていたようですが……。しびれを切らした志貴ボーイズの代表さんが、『沖縄の高校に行くか?』と冗談を言うくらいでした(笑)。そんな中、明桜高のスカウトで、PL学園の黄金期をスカウトとして支えた井元俊秀さんが息子に声を掛けてくれた。最初の誘いは3年春なんですけど、この時は断って。それでも6月ごろにわざわざ足を運んでくださって、こう言ったんです。『この子は体が出来上がる20、21歳になったら大成する』と。当時は何を言ってるんだろうと思っていたんですけどね(笑)」