プロ戦力外翌日に会社設立、現在は保険代理店経営 土屋健二さんの原点は粗利600万円の野球教室
求めるのはハングリー精神たぎらせる人材
「保険屋はひとりで稼げなくなっている」という理由で土屋健二氏は社員を募集している。
条件は「コイツに尽くしたいと思えるかどうか」で、保険営業経験の有無は一切問わないという。「一人、ウチの若手を紹介してもいいですか」と、土屋氏が手招きしたのは入社3年目の笠井基生氏(26)だ。笠井氏は学生時代、東海大のサッカー部に所属したバリバリの体育会系。卒業後は人材派遣会社に身を置いていた。
「笠井君とは2020年の6月頃に六本木のバーで知り合ったんです。普通にお酒を飲んでいたら、『少しだけご一緒していいですか』と言われて(笑)。僕に営業を掛けるつもりだったみたい。でも、意気投合してそれから月1、2回くらい飲むようになって」(土屋氏)
“飲み友”の関係が変わったのは21年頭だった。当時の笠井氏は勤め先の会社に不信感を募らせていた。時には身銭を割いて社交場でも営業を掛け、16カ月連続で売り上げトップ、最年少役職に就いていたものの、それらが給与面にほとんど反映されなかったからだ。
「そんな時、いつだったか土屋さんが言っていた『保険営業の仕事は、営業成績が収入に直結する』という言葉を思い出したんです。そして、未知の業界ではありますが、思い切って飛び込んでみようと、土屋さんに頼み込みました」(笠井氏)
土屋氏が話を引き取る。
「それならウチで一緒にやろうと、すぐに了承しました。基本的なコミュ力に加え、ガッツがあるでしょ。だって、前職では深夜のバーでも個人的に営業していたくらいですから(笑)。けっこうお酒も飲んでいたし、頑張ってカラオケも歌っていた。未経験であっても、そういう子はすぐに成長するだろうと」
保険営業は時間帯など相手の都合に左右される。また、未経験者の場合、人脈開拓に難儀するケースが多い。
「だからこそ、最初の1年、2年はある程度身を削って仕事に捧げる、そのくらいの覚悟を持った人でないと成功は難しいと考えます。僕自身もそうでしたから。長い人生、若い時に少しくらい無理してもいいじゃないですか。その結果が未来に繋がるんです。最近は働き方改革やライフワークバランスが重要視されていますが……、駆け出し保険営業マンでそれを言い出したら、得られる結果もたかが知れる。そういう考えを持つ人がいてもいいとは思うけど、僕は貪欲に仕事を頑張る社員をとことん応援したい」(土屋氏)
笠井氏も入社当初、「例えば朝5時から営業方法の確認をしてほしいと土屋さんに頼んだことが何度もありましたが、断られた記憶がない」と頷く。
保険営業の営業マンは売った商品(保険プラン)の金額に応じて、1案件ごとに歩合が入る。成果を出せば出すほど実入りはデカい。笠井氏は営業ための社交場代などで入社後しばらくは貯金を切り崩す生活が続いたが、半年ほどでトンネルを抜けた。昨年の収入は5000万円を突破したという。
「笠井君のように、とにかくハングリー精神が旺盛な子を募集しています。僕はウソが大嫌い。過去には、面接時に『全力で頑張ります!』と威勢が良くても、フタを開けたらまったく努力しなかった社員もいました。結局、契約が取れずにすぐに辞めてしまいましたが……。面接で見抜けなかった自分の責任です。だから、ハングリー精神を燃やす“本物”をどのようにして見つけるか、これが今のテーマです。そうして社員全員で戦っていきたい。もちろん、僕も経営だけではなく営業マンとして第一線に立ちます」(土屋氏)
そんな土屋氏の営業スタイルは、一風変わっている。現役時代から首脳陣に臆することなく意見してきたように、顧客に対してへりくだる態度を取ることはない。
「僕は強気です。思ったことはズバズバ言う。連絡も無しに遅刻されたら、『なんで一報入れないんですか』って(笑)。仮に契約を結べたとしても、その後、保険を使う際にアフターフォローするのは僕です。だから、僕にも顧客を選ぶ権利がある。クレーマーになったら困るから、やり取りに不安な要素があれば、こちらからお断りすることもあります」(土屋氏)
営業に駆り立てる原動力はシンプルなものだ。
「嫌いじゃないので。営業は。『保険と言ったら土屋健二』と思ってくれる人が増えたらいいなと思っています」(土屋氏)
▽土屋健二(つちや・けんじ) 1990年10月4日、静岡県富士市生まれ。エースとして横浜高(神奈川)を甲子園4強に牽引した2008年、ドラフト4位で日本ハムに入団。12年にDeNAへトレード移籍を経て、15年に引退。プロ通算18試合、2勝3敗、防御率10.80。知人の経営する保険代理店に2年ほど勤め、独立。18年に「TKホールディングス」を立ち上げた。