その死から38年…瀬古利彦を育てた執念の勝負師・中村清を思う
川で転んであちこちをひどく打った。釣りをしていたわけではなく、清掃して滑ったのだ。情けないと、ずぶ濡れになった体で中村清を思い出した。
瀬古利彦の育ての親、長距離界に数々の足跡を残した名伯楽が釣行中に他界したのがこの時期、1985年5月25日、新潟県魚野川でのこと。71歳だった。
ベルリン五輪の代表選手で、戦後は強烈な指導力で異彩を放った。母校・早大競走部の指導に情熱を注ぎながら敵が多く、追われるように東急監督に就任すると、64年の東京五輪に9人の代表を送り込んだ。
昔の大学指導者はボランティアだった。なり手がなく、嫌われながら再び母校を指導し瀬古に出会った。インターハイ2冠の“金の卵”を浪人までさせマラソンへ導いた。
世界をリードしてきた日本のマラソンは、80年代に宗兄弟、瀬古、中山竹通と続く黄金期を迎えた。中村なしにその輝きもなかった。
「先生と会わなければ何でもないランナーで終わっていた。自分で分かる。間違いない」