大谷翔平が蘇らせたドジャースと日本球界「深い関わりの歴史」
ドジャースタジアムで行われた大谷翔平の記者会見の席上、編成本部長のアンドリュー・フリードマンが一人の日本人の名前を挙げた。“Akihiro Ikuhara”、すなわち生原昭宏である。
「アイク」の愛称で親しまれ、2002年に特別表彰で日本の野球殿堂入りを果たした生原は、ドジャース傘下のマイナー球団での用具係から出発し、最後は当時球団を所有していたピーター・オマリーの補佐役を務めた人物として知られる。
オーナーとオーナー補佐という公的な関係以上に、ともに1937年生まれの2人は、時には兄弟のように接し、日米の球界の発展にも大きく貢献した。
ジャイアンツやドラゴンズがベロビーチでキャンプを行えたのも、日米大学野球が始まったのも、プロやアマチュアを問わず、日米の野球を通した交流を促進した両者の取り組みの成果だったのである。
日本時代に大谷が所属していたファイターズでは、生原を慕い、野球を通した日米の交流に尽力したいと単身渡米した岩本賢一がチーム統括本部副本部長を務めている。