《柴原洋の巻》お手本のようにレギュラー定着も「四天王扱い」に不満を抱いていたワケ
柴原洋
1996年のドラフトで1位・井口忠仁(現・資仁)、2位・松中信彦に続く3位で指名されたのが柴原洋(50)です。
上位指名が打者3人ということもあり、打撃投手の間では「誰が一番、成績を残す?」と話題になりました。僕が真っ先に名前を挙げたのが柴原でした。ボールのさばき方が上手で、パワーもそれなりにある。
強打の捕手として知られた吉永幸一郎も「柴原、いいですよねえ」と感心し、「あの子、今のままで何もせんでも2割5分は打つよ。3人の中で一番いいんじゃない?」と話していました。
そんな柴原でも本格的に台頭したのは2年目。当時、中堅を守っていたトンプソンが故障し、急きょ、柴原が一軍に呼ばれたのがレギュラー獲得の足がかりになりました。そこからの数試合は打つわ打つわ、ヒットを量産。盗塁を成功させるなど足でもアピールし、一軍に定着しました。まさに「レギュラーってのはこうやって取るんだ」というお手本のような活躍でした。
当時は打線の中核を担っていた小久保裕紀、城島健司、松中、柴原が「ホークス四天王」と呼ばれていました。ただ、柴原は不満があったようで、「田尻さん、四天王とか言われているけど、俺そんなに(年俸)もらってないっすよ」と愚痴を言われたこともあります。先に入団した小久保と城島、同期でも本塁打を量産していた松中に比べると、柴原の年俸は低かったのは事実でしょう。