箱根駅伝を無理に「世界」や「マラソン」と結びつけて感動を煽るヤボはいらない。駅伝は駅伝なのだ
中学生の孫に箱根駅伝ファンがいる。
女の子で各校の内情を細かく知っている。卒業生に興味はないただの駅伝好きだ。2度目の万博を迎える大阪で、学生と実業団の精鋭による「エキスポ駅伝」が開かれるという。前回からのタスキ? 要は駅伝は耳目を集めるのだ。よほど日本人の肌に合うようで、びわ湖毎日、福岡国際など老舗マラソンが幕を下ろしても、駅伝はますます盛況である。
最初の駅伝、大正6年の「東京奠都記念東海道駅伝徒歩競走」をヒントに金栗四三は箱根駅伝を立案した。ストックホルム五輪の雪辱を期す選手発掘の手段で、当時、マラソン=42.195キロは確定しておらず、大人数による普及強化──対抗戦、団体戦で分かりやすいから、戦後も織田幹雄が「年に何百回もやる県がある」と嘆いたほど全国で駅伝が開かれた。
「箱根から世界へ」「マラソンの登竜門」……主催する読売新聞や日本テレビのキャッチをうのみにしてはいけない。第1回大会の1920年は五輪イヤーで、早稲田の5区・三浦弥平はマラソン選考に備え手を抜き糾弾された。箱根から五輪代表になった選手はまれ、メダルを取った選手は南昇龍以外いない。