阪神の「光と影」を誰よりも経験した名将・吉田義男さん…元球団社長の野崎勝義氏が悼む
チームが2年連続最下位に低迷する中、当時の三好球団社長の肝いりで3度目の監督に。明るい性格で「気合でっせ!」などとチームを鼓舞し、ファンも「よっさんが帰ってきた」と大いに期待を寄せましたが、5位、6位と苦しい戦いが続きました。私は当時、総務、営業部門の取締役として連盟担当を務め、編成には直接関与していませんが、しっかりとしたサポートができず、悔いが残っています。
就任直後の96年オフ、西武からFA宣言した清原和博の争奪戦に参戦し、「縦ジマを横ジマにしてでも君が欲しい」と口説いた吉田さんが、特に苦労したのがドラフトでした。
当時は逆指名。吉田さんは98年ドラフトでは「上原浩治(大体大)と二岡智宏(近大)を取ってほしい」と要望したものの、スカウト陣は巨人が参戦してくるというだけで腰が引けてしまった。球団内では派閥争いもあって、吉田さんの希望は受け入れてもらえませんでした。
それでも、97年オフには中日とのトレードで関川浩一、久慈照嘉を交換要員に、大豊泰昭と矢野燿大を獲得。チームは正捕手不在で、吉田さんはとにかく捕手を欲しがっていた。ご存じの通り、矢野は2003年、05年の優勝に大きく貢献しました。