先手を打って“自己批判”が防御となる
「人間失格」太宰治著
文学に興味はなくても、日本人なら題名くらい知っているという小説がある。太宰治の「人間失格」はそうした特権的な小説のひとつだろう。内容はフィクションだが、ダメ男が自己愛に満ちた自己反省を交えつつ、己の過去を内面の苦悩とともに告白するというスタイルは、まさに私小説の王道を思わせる。
主人公・葉蔵は、互いに欺き合いながら平然と生きている「人間」を恐怖し、「お道化」の演技を隠れみのに世の中を渡っていこうとするが、女性遍歴を重ね、金に困ったり、内縁の妻が犯されたりするうちに、心中未遂や自殺未遂を起こした揚げ句、アル中、喀血、ヤク中へと坂を転がるように身を持ち崩し、ついには周囲の人間から精神病院に入れられ、自分は「人間、失格」だと自覚するに至る。
しかしその葉蔵自身、人間がこわい女がこわいと言いながら、犯された妻の弱みにつけ込んで「地獄の愛撫」を加え、薬物中毒を心配する薬屋の奥さんには、薬を出さないなら再び酒浸りになるぞと脅し、自分の「不幸」をアピールする割には、女の身の上話には馬耳東風など、よく読めば突っ込みどころ満載だ。
とはいえ、そこは作者も心得ていて、葉蔵が批判されそうなところには、天才的な嗅覚で予防線を張っている。批判される前に先に葉蔵に、“自分”で言わせてしまうのだ。
例えば身元保証人に嘘をついて家出した自分の性格を、世間でいう「嘘つき」に似ていると批判を先取りしつつ、しかし自分は自分の利益のために嘘はつかないと自己弁護。友情を実感したことがないといっては自分には「人を愛する能力」が欠けていると自己批判したかに見せて、返す刀で「世の中の人間」だってそんな能力あるの? と開き直る。
そして自分以外にも不幸な人たちの存在を一応は認めながら、しかし「自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無い」分、いっそう不幸だと、自分への批判を逆手に取る。
人は批判を相手に先取りされると、時に機先を制せられる。つまり、先手を打って自己批判することが逆に防御ともなるのだ。
後手後手の自己弁明に終始したどこかの知事にも、参考になるのではあるまいか。