「月まで三キロ」伊与原新著
月は1年間に3.8センチずつ地球から離れているんだそうだ。3.8センチなんてたいしたものではないと思うところだが、積もり積もるとばかにはできない。いま月までの距離は38万キロだが、40億年より前の距離はいまの半分以下。つまりそれだけ離れたことになる。だから太古の月は地球から見ると、いまの6倍以上も大きかった。
という話を教えてくれたのは、タクシーの運転手だ。事業に失敗し、妻と離婚し、故郷に帰ったら母が亡くなり、そのまま父の看護に追われる日々が続き、これでは倒れると、田んぼも家も全部売って、父をその金で老人ホームに入れ、残ったわずかな現金だけを持って故郷をあとにした49歳の語り手が、自殺を考えて乗ったタクシーの運転手だ。「知ってました?」と彼が教えてくれた。
タクシーの運転手がなぜそんなことを知っているのかは、本書を読まれたい。自殺を考えていた語り手がその後どうなるのかも、ここには書かないでおく。
本書は6編を収録した作品集だが、この表題作と、食堂にやって来る女性客が宇宙人だと信じる小学生を描く「エイリアンの食堂」が強い印象を残す。それは、中年男の再生と、少女の未来を、自然科学によって際立たせるという本書の特殊な手法が新鮮だからである。
手垢のついた素材をこれまでとは違う角度から照射することで新鮮なものに変貌させてしまう「魔法」が、ここにある。
(新潮社 1600円+税)