1961年、岐阜県生まれ。2009年「さよならドビュッシー」で「このミステリーがすごい!」大賞を受賞しデビュー。本作は「切り裂きジャックの告白」「七色の毒」「ハーメルンの誘拐魔」「ドクター・デスの遺産」「カインの傲慢 」に続く、シリーズ第6弾。
<13>ATMから現金を引き出したのは夫
犬養たちが家族への事情聴取に臨むと、最初に夫の富秋が口を開いた。
「わたしの帰宅時間は大抵夜の八時過ぎです。それまでは先に帰宅している亜以子が瑞穂の看護をすることになっているのですが、今日は六時過ぎに亜以子から連絡があって駆けつけたんです」
富秋の退社時間は会社に問い合わせれば確認できる。少なくともアリバイは立証可能ということだ。
「ATMから現金を引き出したのはご主人でしたね」
「〈ひまわりナーシング〉の契約更新に必要だからと妻に頼まれました。最初に契約を決めたのは妻だったので、契約更新の話も全く疑いませんでした」
「介護のことは家族が決めるものだと思っていました」
犬養のいくぶん皮肉めいた質問にも、富秋は反応しない。妻を亡くした動揺と哀しみで他の感情が入り込む余地もないのだろう。
「まだ症状が軽いうちに本人が契約を決めたんです。介護を全て家族に任せると、家族までが疲弊してしまうからと」
「しっかりした奥さんだったんですね」
「ええ。だから病状が進むにつれて身体のあちこちが動かなくなる妻を見ていると本当に不憫で。刑事さん、ALSについてはご存じですか」
「以前扱った事件で知りました。一般常識の範囲内ですけどね」
「指定難病で、一度発症すると症状が軽くなることはありません。医師や周囲の者ができるのはサポートだけです。日に日に衰弱していく者を見ていることしかできない」
症状が進行すれば本人の意思を確認するのも容易ではなくなる。早い段階で自らのサポート体制を決定した瑞穂の判断力は称賛に値する。そして、それほど判断力が優れているのなら己の安楽死についても明確な意思を示しただろうと思わせる。
「それにしても二百万円というのは大金ですよね」
「妻は以前FX(外国為替証拠金取引)でわたし以上に稼いでいた時期があったんです。ALSを発症してからやめてしまいましたが、その時の蓄財がかなりあるんです。もっとも彼女自身の治療費や介護費用でずいぶん目減りしましたけど」
自身の介護費用まで捻出するとは大した人間だ。犬養は生前の瑞穂に対して畏敬の念を抱かざるを得ない。身体機能が落ちても意思は病魔に屈しなかったということだ。
ところが、その強靭な意思は自らの介護方針どころか安楽死までも決めてしまった。
FXで最も求められるのは決断力だと聞いたことがある。瑞穂の場合はその決断力が功を奏したのだろうが、同時に自身の生命を断つことにも寄与したのは皮肉以外の何物でもない。
「本人から安楽死について話し合われたことはありましたか」
「いいえ、全く」
(つづく)