「耳のなかの魚」デイヴィッド・ベロス著 松田憲次郎訳
ジョルジュ・ペレックは実験的な作品で知られるフランスの小説家だが、「煙滅」という作品はフランス語で最も使用頻度の高いeの文字を一切用いずに書かれたもの。eなしに小説を書くのはいかに困難か想像に難くないが、それを「翻訳」するのは至難の業(日本語訳では「いきしにち~」のい段を用いず訳出)。著者は「煙滅」に劣らないペレックの実験的な小説「人生 使用法」の英訳者で、ペレックの評伝もものしている。
本書は、翻訳者であり翻訳研究者でもある著者が、翻訳という問題をめぐって多角的に論じたもの。ここで言う「翻訳」は文字媒体だけでなく口頭による通訳も含まれており、ニュルンベルク裁判での同時通訳や、23の異なる言語を使用する27カ国が加盟しているEUにおける通訳・翻訳など興味深い問題にも目が向けられている。
また、映画の字幕翻訳も取り上げられていて、字幕では一遍に表示できる字数に制限があるため、スウェーデンの映画監督、イングマル・ベルイマンは、スウェーデン国内向けの会話の多い陽気なコメディーと、国際市場向けの寡黙で沈鬱なドラマという2つを作り分けていたという。そう、我々の知るあの暗鬱なベルイマンのイメージは字幕のせいだったのだ!? この「ベルイマン効果」は文学にも及んでいて、翻訳の制約をあらかじめ意識して書く作家も多いという。
その他、詩や地口、洒落の翻訳の可能性から聖書の翻訳(聖書に出てくるイチジクがスマトラにないので現地の聖書の翻訳ではイチジクがバナナになった)や自動翻訳機の問題まで、その視野は驚くほど広く、ナボコフ、ベンヤミンといった翻訳論にはお馴染みの名前は無論のこと、「日本で最も有名な英語翻訳者」として柴田元幸が登場するなど、文字通りの博覧強記ぶりに圧倒される。
ちなみにタイトルの「耳のなかの魚」とは、ダグラス・アダムスのSFコメディー「銀河ヒッチハイク・ガイド」に登場する、耳に入れるとどんな惑星の言語も通訳してくれる小さな魚のこと。 <狸>
(水声社 3520円)