すず風にゃん子・金魚「東八郎、内海桂子・好江…あの先輩方と同じく体が動く限り舞台に立ちたい」
スケジュールをすっかり忘れ、気づいた時には舞台の5分前…
そんなにゃん子さんの顔がインタビュー中、一瞬だけ曇った。
「つい最近のことですが、金魚ちゃんが舞台に穴をあけそうになったのです。これまで、ただの一度だってそんなことはなかったし、普段の金魚ちゃんは、出番の1時間前には必ず楽屋に来て準備をしているほど。何度電話をしてもつながらず、お互い独身の身ですから、考えたくもありませんが『もしかして……』が頭の片隅をよぎりました」
当の金魚さんが事情をこう話す。
「確かににゃん子ちゃんから『次のスケジュールは16日だからね』と念押しされていたのですが、すっかり忘れていた。自分でもなぜなのか理由が分からないのですが、近所に買い物に出かけていて、気付いた時には舞台の5分前。『落ち着け、落ち着け』と頭はもうパニックでした」
ところが、ここからが仲間の浅草芸人たちの温かいところだ。
「皆さんがちょっとずつ自分らの出演を長くしてくれ、金魚ちゃんが来るのを待ってくれたのです。やがて金魚ちゃんが飛び込むように劇場にやって来ると、私たちの出番をトリの前の『ひざ』に変更してくれたのですが、そうすると今度は舞台の時間が押してしまって、少しずつ時間を短くしてくれた。互助会というとヘンかもしれませんが、浅草の仲間というのは、こんな雰囲気がありますね。何かあると皆が心配してくれ、協力してくれるのです」(にゃん子)
「もともと漫才協会主催で舞台を行うときは、出演は『漫才師のみ』という決まり事があったのですが、内海好江師匠を亡くしてからピンでやっていた内海桂子師匠が会長の時、『同じ苦楽を共にする芸人なんだから』という鶴の一声で変更になりました。今はいろんな芸人さんと一緒に舞台に立てるようになった。そしてナイツの活躍もあって、若いお客さんも徐々にですけど増えてきた。思い返せば、東八郎師匠、あした順子・ひろし師匠、昭和のいる・こいる師匠、青空球児・好児師匠、そして私たちが最もお世話になっているおぼん・こぼん師匠……、すでに鬼籍に入られた方もいますが、最後まで舞台に立ち続けられている。私らも体が動く限り、この浅草の舞台に立ち続けたいと思っています」(金魚)
コンビを組んだ頃はお金がなく、隅田公園が稽古場だった。内海好江師匠が「おんなは我慢よ」と励ましてくれた。
2人とも年金をもらえる年になったが、お金には代えられない何かを持っている気がする。
▽北海道恵庭市生まれの金魚と横浜市生まれ横須賀育ちのにゃん子で1990年、「みどりのおばさん」としてデビュー。95年に「にゃん子・金魚」に改名し、2003年に真打ち昇進。