シマノレーシング監督はあの“日本航空123便”に乗っていた
山藤浩三さん・辻昌憲さん(1964年東京五輪・自転車代表)
1964年東京オリンピック。自転車競技に出場した2人のオリンピアンは、ともに39歳で悲惨な死を遂げている――。
バブル経済が最盛期を迎えていた1980年代。全国50カ所の競輪場の年間車券総売上額は1兆円を突破し、プロ選手として中野浩一が初の年収1億円を達成。約4500人の競輪選手の平均年俸は、プロ野球選手を上回っていた。
そんな時代の84年5月10日、朝日新聞社会面に家族4人の顔写真入りの6段抜き記事が載った。
〈元五輪選手が一家心中 競輪A級山藤選手〉
競輪選手の山藤浩三は妻と話し合い、茨城県取手市の自宅2階の寝室にガスを引き、2人の息子を道連れに一家心中を図ったのだ。知人によると、妻が親族の借金の連帯保証人になってこげつき、サラ金業者に追われる日々だったという。妻の遺書には「いくら払っても借金はなくなりません……」と書かれていた。
■全盛時の年収は3000万円
山藤は高校時代から、インターハイ1000メートルタイムトライアルで優勝する有望選手。法政大在学中の東京オリンピックでは、4000メートル個人追い抜き13位、団体追い抜きにも出場している。競輪選手転向後も新人王戦を制するなど、全盛時の年収は3000万円を超え、30歳半ばまで特別競輪(G1)に出場していた。