1982年来日 韓国初のプロを率いた老監督との邂逅<下>
五輪本大会では初戦のスウェーデン戦と2回戦のイタリア戦にスタメンでフル出場。「ベルリンの奇跡」の一翼を担った。
その後も、日本代表としてドイツやスイスへの遠征、日満華交歓競技大会(満州)、紀元二千六百年奉祝東亜競技大会(明治神宮外苑)などの大会に参加した。
第二次世界大戦後は韓国代表としても活躍し、1948年ロンドン五輪では選手兼コーチとして2試合に出場。
韓国が初めて出場した1954年のスイスW杯では代表コーチを務め、その後は国内のチームの監督を歴任。そしてハレルヤの監督として1982年に来日したのだった。
波乱に富んだサッカー人生を知って「もっと色々な話を聞きたかった」と後悔した。
読売クラブ戦の3年後の85年3月、74歳で人生に幕を閉じた。死後には体育勲章猛虎章が授与され、05年に韓国サッカー名誉の殿堂入りを果たし、ソウルのワールドカップ競技場にあるワールドカップ記念館には胸像が飾られている。
近い将来、ソウルで日本代表の試合が開催されたら、是非とも訪れようと思っている。(おわり)