なぜ小久保ヘッドではなかったのか? ソフトB次期監督に「藤本二軍監督」昇格の内幕
知名度や華やかさでは他球団の監督に負けていても、指導者としての手腕は文句なしだとか。
今季限りで退任するソフトバンクの工藤公康監督(58)の後任に内定している藤本博史二軍監督(57)である。
1981年ドラフト4位で天理高から南海(現ソフトバンク)に入団。パワーと選球眼を兼ね備えた中距離ヒッターとして活躍した。89年から95年まで7年連続2ケタ本塁打をマークし、92年には自己最多の20本。右打ちの技術もあり、90年にはサイクルヒットも達成。主に三塁を守り、守備範囲こそ広くないものの、「グラブさばきは名人芸」と言う声もあった。
98年途中にオリックスにトレード移籍し、その年限りで引退。その後は福岡で解説者、評論家をしながら居酒屋「藤もと亭」を経営。2011年に二軍打撃コーチでホークスに復帰すると同時に店を閉め、一軍打撃コーチ、三軍監督などを歴任した。
南海時代のチームメートで、ホークスで同時期にコーチを務めた山内孝徳氏(評論家)が言う。
「一言で言えば、コツコツ努力するタイプ。ずばぬけた選手ではなかったが、自分の持ち味を理解した上で過酷なレギュラー争いを戦っていた。指導者としても同じく、地道にやるタイプ。頑固さはあるけど、頭ごなしの技術指導はしない。今季一軍への足がかりをつくった砂川リチャードについても、彼が入団した当時から『いいバッターがいるんですよ。大砲候補で、モノになる。何とかして育ててやりたいんですよ』と目を輝かせていました」
■柳田育てた育成手腕
二軍コーチ時代は主砲の柳田を育てたことで、その指導力は球団内で高く評価されている。別のホークスOBが言う。
「コーチとしてはとにかく初志貫徹。例えばキャンプで『毎日このメニューをやろう』と決めたら、何があってもそれをやる。二軍時代の柳田にもキャンプでは毎日、ロングティーをやらせていた。柳田が全体練習でヘトヘトになろうが、『やるぞ!』とお構いなし。かといって、頭が固いわけじゃない。球団主導のデータ野球にもしっかり順応。ファームの選手には球団が決めた育成方針があり、試合前に『この選手は今季何試合、二軍で打席に立たせる予定なので、今日の試合はスタメンで使ってくれ』などの指令もある。藤本さんの意図とは違うことがあっても、『まあ、仕方ない』と受け入れていた」
後任の一本化に苦慮
それにしても、なぜ藤本二軍監督なのか。ソフトバンクの歴代監督は王貞治、秋山幸二、工藤公康と大スターが居並ぶ。王球団会長は工藤退任の決定後、後任人事について「なかなか難しいところ。もうちょっと時間をね」と一本化に苦慮している様子だった。
球界OBは、「今は野手の世代交代が急務。最終的に藤本監督の育成手腕に賭けた。ただ、もともとは小久保ヘッドの昇格が最有力だと言われてきたのは確か」と、こう続ける。
「小久保ヘッドは侍ジャパンの監督を務めた一方で、プロ野球の指導者としては1年目。次期監督含みで入閣したこともあり、工藤監督はキャンプから野手に関して『ヘッドに任せている』と練習メニュー作成を一任。開幕後も、野手のオーダーや作戦を含めた攻撃面を中心に、小久保ヘッドの意向をくんだ。しかし、チーム防御率はリーグトップを走る一方、打線は低調に。主砲のグラシアル、デスパイネが東京五輪予選出場のために途中離脱した上に、その後も故障、不調が重なった。その結果、工藤政権では初となる前半戦をBクラスで折り返したのです」
そこで工藤監督は後半戦以降、自身で全ての指揮を執ることになったというのだが、後半戦も浮上のきっかけを掴めず、60勝62敗21分けの借金2で、8年ぶりのBクラスとなる4位でシーズンを終えた。
「今のチームでは誰が指揮を執ってもオリックス、ロッテ、楽天に及ばなかった。ただ、工藤監督はキャンプから練習量が減り、選手を鍛え上げることができなかったことなども、今季の敗因のひとつと考えているそうです。要するに、小久保ヘッドの手腕を手放しで評価しているわけではないのです」(前出のOB)
■工藤監督の小久保評
その工藤監督は、球団から来季続投を要請されたものの、これを固辞したといわれている。つまり、球団は当初、工藤監督を来季の監督に最もふさわしいと考えていたことになる。球団周辺からは、こんな声が聞かれる。
「工藤監督が小久保ヘッドを高く評価していれば、来季からの小久保政権誕生を後押しした可能性はある、ともっぱらです。それがなかったこともあって、二軍で経験を積むべきという流れになったと。そこでチームに11年間在籍し、選手からの評判もいい藤本二軍監督に白羽の矢が立った」
「小久保までのつなぎ」とも囁かれる中、12球団きっての実務派監督の手腕はいかに――。
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