人生を野球にたとえれば、村田兆治はカーブを投げられなかったのかもしれない
人生を野球にたとえれば、村田はカーブを投げられなかったのかもしれない。直球とドスンと落ちるフォークボールだけで勝負してきた。
「かわす」というコトバは村田の辞書にはなかったのだろう。
村田の独特のピッチングフォームは”マサカリ投法”と名づけられたが、マサカリをかついだ村田が逃げるわけにはいかない。
1981年に19勝を挙げて最多勝利投手になった翌年、右ひじの腱を断裂し、83年にアメリ力に渡って、トミー・ジョン手術を受ける。
当時はタブー視されていたこの手術に挑戦したところにも村田のひたむきさがうかがえる。これを含めて、村田は常に挑む男だった。84年のシーズン後半に復帰し、翌年は開幕11連勝を成し遂げ、通算17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞している。
日曜日ごとに登板したので”サンデー兆治”と呼ばれた。
村田ならではの不屈のカムバックだった。
87年に2000奪三振、89年には200勝を達成して名球会入りし、90年に史上2人目の40歳代2ケタ勝利(10勝)を挙げたが、思うようにスピードボールが投げられなくなったとして、引退している。