「エスケープ・トレイン」熊谷達也著
自転車ロードレースが盛んになってきたとはいっても、まだまだ外国に比べて我が国の競技人口は少ない。日本ではいまだにマイナースポーツである。だから選手は大変だ。
ロードレースの本場であるヨーロッパのトッププロの年収は億を超えるが、それは一部の選手にすぎず、多くの選手の年収は300万~400万円といわれている。ヨーロッパに比べてはるかにマイナーなスポーツに位置づけられている日本国内の事情は推して知るべし。それでも彼らが頑張るのは、自転車に乗ることが楽しいからである。
本書の主人公、小林湊人23歳も、そんなひとりだ。大学2年までは陸上競技をしていたが(5000メートルがメイン)、右足を疲労骨折。さらに完治する前に無理をしたので、もっと重症になり、リハビリのために自転車を始めたのをきっかけに、ロードレースに転向したという経緯がある。いまは地元のチームに所属してさまざまなレースを戦っている。面白いのはこの青年、強くなりたいとか大レースに勝ちたいという野心というか、目標を持っていないことだ。
だから、ラスト近くの心臓破りの坂を、あとさき考えず、全力でアタックする場面が印象に残る。肺が悲鳴をあげ、視界が暗くなり、もうだめだという瞬間に、突然足が軽くなるのだ。極限を超えると、新たなものが見えてくるということか。眠っていた才能が開花する、この瞬間が美しい。 (光文社 1600円+税)