「パンと牢獄」小川真利枝著
2017年のクリスマスの日、サンフランシスコ国際空港に、一人の男が降り立った。
「パラ!(お父さん)」と叫んで2人の娘が駆けだした。妻は目に涙をため、ゆっくりと夫の元へと歩いていった。夫の胸に飛び込むと、緊張の糸が切れたように泣き崩れた。10年間、一度も会うことができなかった家族の再会の瞬間だった。
男の名はドゥンドゥップ・ワンチェン。2008年の北京オリンピック直前、チベット人の真情をインタビューしたドキュメンタリー映画「恐怖を乗り越えて」を作ったことで、中国の政治犯として不当逮捕された。6年間の服役後、公安監視下の軟禁状態を逃れ、命がけの亡命を果たした。
妻ラモ・ツォは、夫の逮捕後、チベット亡命政府のあるインド北部のダラムサラに亡命し、夫の釈放を待ちながら4人の子供を育てた。
ドキュメンタリー作家である著者は、2009年にダラムサラの路上で手作りのパンを売るラモ・ツォと出会う。その後、8年がかりでラモ・ツォの生活を映像に収め、「ラモ・ツォの亡命ノート」を製作した。“政治犯の妻”ラモ・ツォは、たくましい行動力でダラムサラからスイスへ、そしてアメリカへ渡り、難民として生きることになった。そこに、夫の姿はない。
長き不在の後、ドゥンドゥップの亡命が報じられると、世界中に散らばるチベタンコミュニティーは歓喜に包まれた。そして、ドゥンドゥップは、著者のインタビューに応えて重い口を開いた。半農半牧の貧しい家に生まれ、学校にも行けなかった彼のチベット人としての目覚め。ダライ・ラマ14世への信仰。チベットの歴史など発禁本の自費出版。逮捕覚悟の映画製作。獄中での拷問や不当な扱い。秘密裏の亡命劇。故郷や家族への思い……。
命より大切な「自由」を求めて闘った夫婦の物語は、この世界の現実を明るみに出し、問題を投げかけ、苦難の中にいる多くの人々を勇気づける。
(集英社クリエイティブ 1500円+税)