「シカの顔、わかります」南正人著
宮城県牡鹿半島の先に浮かぶ小さな島、金華山。島には600頭ほどのシカが生息している。著者は、1989年から黄金山神社周辺で生活する150頭のシカ全部に名前をつけ、行動観察を始めた。以来33年間で約1000頭のシカに名前をつけ追跡してきた。本書は長年の観察によって明らかになった野生シカの生態を紹介している。
とはいえ、一頭一頭のシカをどうやって区別するのか。著者らは最初、白髪染めを注射器に入れ、それをシカに噴射して、その模様で識別していた。しかし、2年目からは顔で識別するようになる。顔による個体識別は、ニホンザルの研究ではすでに行われていたがシカでは初めて。同じように見えて、シカの顔は微妙に異なっている。ある学生は、死んだシカの写真を見て、今いる、あるシカの母親だろうと言い当てた。さらには、シカの子供を見てその父親を予想する研究者もいたというから驚きだ。名前がついた個別のシカを観察することで家系図もつくれる。ただし、父親の特定は難しいので母系の血縁グループの家系図ではあるが。
特筆すべきは名前をつけることによって、個々のシカのライフヒストリーが描けることだ。雄同士のなわばり争い、雌たちの生殖戦略、子育てと子離れ等々が、名前をもつ個別のシカの一生として見えてくるのだ。そうやって観察を続ければ当然愛情も湧いてくる。
では、けがや病気をしたシカに対してどのような態度をとるのか。基本的に研究者はシカの生活に介入してはいけない。死産の子が膣口からとれないシカは黙って見守るしかない。しかし、人為的な原因によるけがの場合は介入することも。そこには明確な線引きはない。
農産物被害のために駆除されるシカの個性はほとんど問題にならないが、そうしたシカたちにも金華山のシカと同じ個性とライフヒストリーがある。野生と人間の関係を深く考えさせられる一冊。 <狸>
(東京大学出版会 3960円)