「地下出版のメディア史」大尾侑子著
野坂昭如の「好色の魂」は「好色出版の帝王・貝原北辰」を主人公にした長編だが、そのモデルは、大正末から昭和初期にかけてのエロ・グロ・ナンセンス文化を領導した出版人・梅原北明だ。
「昭和初期を荒れ狂った変態出版ゲリラ」と称されるように、数多くのエロ本・エロ雑誌・珍書を手がけ、相次ぐ発行禁止処分を受けながらも不死鳥のごとく蘇っては、猥本(わいほん)マニアたちの期待に応えた日本出版史上に異彩を放つ傑物だ。
北明らが企画出版した「変態風俗資料」「世界好色文学史」「世界性慾学辞典」といった本は、一見すれば、等し並みに低級文化とくくられてしまいそうだが、本書は、北明たちの目指した性文化探求は俗流のエロ・グロとは一線を画すことを丁寧に跡づけている。北明らは趣味の世界ではあっても真摯な研究態度に裏打ちされており、それは単なる低級文化ではなく、岩波文化/講談社文化などの「高級文化」とも違った、第三極の「高級文化としてのエロ・グロ」であったことを明らかにしていく。
そのひとつが装丁へのこだわりだ。ガラス製の表紙の本やモダンなタイポグラフィーを用いたレイアウトなどが使用されている。とはいえ、当局から見れば風俗を壊乱するものにほかならず、厳しい検閲にさらされる。それに対して北明たちは、一般流通ではなく会員方式の地下出版として、伏せ字だらけの本で当局の検閲を通し、後から会員に別途伏せ字一覧を送るというゲリラ戦を展開する。
戦争が本格化するとさすがの抵抗もむなしく、北明らの出版活動は休止を余儀なくされる。戦後のカストリ雑誌(安手のエロ・グロ雑誌)全盛時代にも北明らの系譜は生き残り、やがて伝説のアブノーマル雑誌「奇譚クラブ」に受け継がれていく。学術的な内容だが、豊富な図版や珍しい資料が付され、表舞台に登場しにくい地下出版の姿をリアルなものにしてくれる。 <狸>
(慶應義塾大学出版会 4950円)