「電車で怒られた!」田中大介氏
「電車で怒られた!」田中大介氏
スリや不正乗車が横行し、乗り降りの乗客がもみあうなか、足元には弁当の空き箱やミカンの皮が散らばっている……。実はコレ、海外の話ではなく、戦前の日本の車内の話。乗客が整然と並び、世界一清潔ともいわれる今の日本の電車の姿になるまでに、どんな経緯があったのか。
「公共交通の利用者のコミュニケーションを研究しているなかで、鉄道マナーの歴史を今回戦前から現在に至るまでたどりました。多くの人が一定時間隣り合う車両は、まさに社会の縮図で、人の価値観や制度の変化などが反映されています」
本書は、20世紀前半から21世紀の日本の鉄道で、どんな規範が掲げられ、どのように秩序をつくり上げてきたのかを分析したもの。規範という視点から、近年の日本の変容が見て取れる。
たとえば1920年代。本書によると「一降り、二乗り、三発車」という標語が盛んに使われ、降りる人優先のルールが促された。1940年代には大日本青年団らによる「交通道徳実践隊」が組織され、大政翼賛会による「交通道徳」の呼びかけもあった。
「戦争の雰囲気が高まると『車内は家庭の延長で社会の縮図』だから、大東亜共栄圏の確立のためにも奇麗に使おうと啓蒙した。2008年の東京メトロのマナーポスターで、『車内は家ではないから寝転んだり化粧したりするのはやめよう』と説得していたのとは逆です。時代によって扱いが反対になるのは面白いですよね」
戦後になると「交通道徳」は姿を消し、米国輸入の「エチケット」という言葉にすり替わった。今度は電車でも国際社会の一員として恥ずかしくないよう美しくふるまいましょうと言い出している。
「規範を守ってもらうために戦争時にはナショナリズムを持ち出し、戦後は米国主導のデモクラシーを持ち出す。その時代に誰も反対できない一番強い理念を使って乗客を説得してきたのです」
その一方で、規範に従うように絶えず求められる乗客の心情はどうだったのか。実はエチケットが叫ばれた頃から通勤地獄が問題化。1973年には乗客の怒りがピークに達し「上尾事件」「首都圏国電暴動事件」が発生した。順法闘争を契機に起きたダイヤの乱れにより電車に乗れなくなった客が膨れ上がり、その一部が暴徒化して駅を破壊し、運転士に殴りかかったのだ。
「結局、規範は乗客を我慢させるものでしかなくて、このときになんとかする方策として、現在使われているマナーが登場したのではないか。もはやナショナリズムやデモクラシーなどの理念も使えず、マナー自体が正義になった。近年の私人逮捕系ユーチューバーなどは、極端に規範意識がエスカレートした形なのだと思います」
この暴動以降、乗客の怒りは問題解決のための社会運動に向かうことなく個別の乗務員や乗客に向けられ、労働運動を迷惑と感じる空気ができたのではないかという本書の考察も興味深い。
「外国人が増えるなか、日本人が長年の訓練の末に行きついたマナー頼みの車内も、今後どこかで限界を迎える可能性もあります。スマホやSNSによる相互監視が強まる今、本書を通して歴史を俯瞰してもらえると、マナーに対する考え方もどこか柔軟に変わってくるかもしれません」
(光文社 1100円)