穏やかな主婦が知った「浮気より刺激的」なもの。人生初のパチンコで味わった「異世界のような」快感【辻堂の女・熊田 沙耶35歳 #3】

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コクハク

【辻堂の女・熊田 沙耶35歳 #3】

【何者でもない、惑う女たちー小説ー】

 2年前に都内から引越し、湘南・辻堂で暮らす沙耶。注文住宅の家で専業主婦をする悠々自適の生活を送っている。しかし、刺激の中で生き生きと暮らす友人に嫉妬の感情さえ生まれない自分に焦りを感じるのであった。【前回はこちら】【初回はこちら

 ◇  ◇  ◇

 冬だから大丈夫だろうと、2週間野菜室に放置していたぬか床が腐っていた。

 ネットで対処法を探したが、そこまでしてぬか漬けを食べたいかというとそうでもないので、潔く処理をする。

 時折、かき混ぜるだけで良かったはず。それをなんとなく忘れていた。

これは求めていた幸福なのだろうか

 そもそも、すでに自分の生活の中でのぬか床の優先順位が低かったから、当然の末路だ。特に落ち込みはしない。

 ――いつからだろう。バーキンも、ケリーも、ハリーウィンストンも、欲しいと思わなくなったのは。

 買ったとしても、持ち歩く場所がない。ちょっとしたパーティーはまずない。そもそもハイブランドを持つだけで、浮いてしまう一般庶民になってしまった。

 都内に暮らし、大手企業や有名人をクライアントに持つPR会社で亜紀らと切磋琢磨していたかつての自分。芸能人とも日常的に会話をするなど華やかな生活の中で、上昇志向と競争社会の波の中にいた。

 つい2、3年前のことなのに、別世界の出来事のようだ。

 沙耶は、悪臭のする糠にまみれた手のひらを見つめる。

 多分、いまは十分幸せな日々のはず。

 だけど、これは求めていた幸福なのだろうか。

「ヒヤリ」とした感覚をもたらしたものは…

 溜息を吐きながら、腐った野菜を生ごみ処理機に移そうと、底から掻き上げた。

 すると、異物の存在感があった。

「なにこれ…」

 小さな固い球体。沙耶はつまんで見つめる。間延びした自分の顔から目を逸らす。そしてにわかに思い出す。

 ぬか床を作った時、夫の机の引き出しの奥に入っていたパチンコ玉を殺菌して数個入れたことを。

 釘をぬか床に加えると、野菜に鉄分が染みて、栄養と鮮やかさが加わるのだという。同じ鉄ならばと殺菌した上で、数個入れたのだ。

 ――そういえば、パチンコ玉って家に持ち帰ると犯罪だよね…。

 その時は意識していなかったが、最近、何気なく見た法律バラエティ番組でそんな話題がとりあげられていた。思い出し、背筋が凍った。とっさに戻しに行こう、と決める。

 そんな真面目な倫理観が、この生活がつまらない一因でもあるのだろう。だからこそ波も風も立つことはない閑散とした海に漂流している。

 駅前に大きなパチンコ店があったはずだと、家を出る準備をする。その中で沙耶は内心不安と戦っていた。ご近所さんや子供を介したママ友に目撃されたらと思うと…。

 しかし、どこか懐かしいヒヤリとした感覚に、再び巡り合えたような気がしてならなかった。

まるで異世界。はじめてのパチンコ店で味わう体験

 足が震えていた。

 建物の前に立つ沙耶は、不安と恐怖に身体の機能を制御されていた。後ろを振り返り、周囲を見回す余裕などはない。

 まっすぐに、その中へ足を踏み入れる。

 ホッとしたのもつかの間、耳をつんざく爆音が、沙耶を迎え入れた。

 分煙とはいえ、タバコの煙が微かに薫っている。空気が重い。ここは、自分の住む穏やかで、風通しのいい街なのだろうか――。今の自分は、主婦・熊田沙耶ではない、ただ存在するだけの物体になったような気がした。

 ――早く、玉を戻して、帰らなきゃ。

 焦る反面、生まれてこの方、縁のなかった場所に自分は今立っている場違いさが心地良かった。ここにもう少し溺れてみたくなっていた。

 まるで異世界。

 夫が独身時代に暇つぶし程度でやっていたという接点くらいで、沙耶にとっては全く縁のない場所だったのだ。

「ねえちゃん、その台、俺の」

 パチンコ台の前に何気なく座っていると、白髪のまばらなおじいさんがやって来て、沙耶を睨んだ。その濁った目の中の生気――いや、殺気なのか――は、沙耶のそれよりもみなぎっていた。

「すみません、はじめて来たもので」

 頭を下げて下手に出ると、そのおじいさんは得意げに沙耶を1円パチンコの台まで誘導してくれた。打つ気はなかったが、そのマンスプレイニングに背中を押された。言われるがまま、素直に従う。

 後のことは、沙耶の記憶にほとんど残っていない。

 気が付くと、そこにあったのは興奮の余韻と、金色のチップが入った小さなカードであった。

私の中で、何かがはじけた

「ママ、最近感じ変わったよね」

 ある日の夜、夫が口ごもりながらつぶやいた。外出が多くなった沙耶について、あらぬ方向に想像を膨らませているようだった。

「そうかな…アルバイトはじめて、人前に出るようになったから?」

 沙耶は、色付きのリップクリームを塗りながら、彼の疑問に答えた。その奥にある、大きな理由を笑顔で包みながら。人生を堪能するためのノイズは極力ない方がいい。

 あの日、あの時。何かがはじけた。

刺激のない生活から解放されたのだ

 沙耶は軍資金とアリバイ作りのために、最近、近所のスーパーでパートをはじめた。それに出会うまでは、近所の人の目が気になって、仕事などしようとも思ってなかったことだ。

 その行動力に自分でも驚いた。腰を上げたのは、大きく負けた日に、衝動で駅にあったタウンワークを手に取ったことが発端だった(その後、取り返したが)。

 今までは、この街に暮らす自分に酔いながら、その優雅の鎖に縛り付けていたのかもしれない。

 何の生産性も刺激もない生活を言い訳しながら、誰よりも余裕があることを誇示し、思い込むことで、心の隙を埋めていた。

 最近はヨガもサボり気味で、ホームベーカリーもほこりをかぶっている。だけど、そんな自分が好きになっている。

 あの場所に足を踏み入れるだけで、すべてが解放された。もうひとりの自分を見つけ出した。脳が、心が、血が、踊りだした。手に汗握ることなど、前職の時に経験した企画コンペ以来。生の躍動が実感できていた。

 決して、犯罪や、倫理に反したことはしていない。それなのに、背中に圧し掛かる後ろめたさは、現在の沙耶にとって理性をコントロールするための縛りであり、快楽を割増しで享受するための負荷だ。

 カタン。

 おもむろに洗濯ものを畳みはじめると、ワンピースのポケットから、銀色が零れ落ちた。夫がそれを拾う。沙耶は無感情で告げる。

「昔あなたが持ち帰ってきたパチンコ玉。ぬか床に入れるといい味出すの」

ヨガ以上に「無」になれる場所を見つけた

 彼はすぐに納得してくれたが、少し言い訳がましかったと反省する。そして、その後悔はさらなる楽しみのためのスパイスとなった。

 また、今日も午後に駅前に行くだろう。パートを終えて、子どもが帰ってくるまでの2時間は、『わたし』の意識は無になり、心身ともにリラックスできるときだ。これ以上の、シャバーサナはない。

 沙耶は、ぬか漬けづくりをまた始めようと決意する。

 次こそは腐らせず、鮮やかな色のおいしい漬物を作れると思った。

Fin

(ミドリマチ/作家・ライター)

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