夢の湘南「一軒家暮らし」で私が失ったのは何? 不便さの忠告に聞く耳持たず…腐っていく自分にゾッとする【辻堂の女・熊田 沙耶35歳 #2】
【辻堂の女・熊田 沙耶35歳 #2】
【何者でもない、惑う女たちー小説ー】
2年前に都内から引越し、湘南・辻堂で暮らす沙耶。注文住宅の家で専業主婦をする悠々自適の生活を送っているが、どこか物足りない。湘南生活を満喫し、ヨガやぬか床などに手を出しているが…。【前回はこちら】
◇ ◇ ◇
湘南の一軒家に住み始めたことは、沙耶の人生にとって当然のことだった。
富山で生まれ育った沙耶。周りの親せきや友人は、みな一軒家に暮らしていた。だから、大人になったら誰もが家を建てるものだと考えていた。
沙耶が大学で東京に出てきてまず驚いたのは、団地やマンションで生まれ育った同級生が半数以上であったこと。
実家暮らしの友人が住むマンションに行った際、思わず「こんなところに家族で住んでいるの?」と口走ってしまったことも。4人暮らしに十分な4LDKの家であるにもかかわらず、だ。勿論、あとで丁重に自分の無知をわびた。
どうしても「一軒家」が欲しかった
しばらくして、都会の人がみなマンションに住んでいる理由を常識として理解できた。そして十数年。だいぶ都会暮らしにも慣れ、マンションやアパート育ちの人々のことも沙耶は受け入れられるようになったが、やはり、家庭を持って暮らすのであれば一軒家は譲れなかった。
どんなにタワマンやデザイナーズマンションが崇められようが、確固たる戸建て至上主義は変わらない。
戸建ての不便さや売却の際の苦労、「家を建てたいという発想は田舎者の考え」、などと高級マンション住まいの友人に熱心に訴えられようも、聞く耳を持てなかった。
幸い、友人の紹介で出会い、結婚した岡山出身で大手電機メーカーのエンジニアをする夫も同じ価値観だった。入籍してすぐ、土地探しから、納得のいく住処を探し始めた。
だが、都内で探すと、金太郎飴のような狭小住宅か身の丈に合わない値段の物件しか見つからない。ぼやぼやしているうちに、建築資材の高騰や地価の上昇は進んでいく。上の子供が小学校に上がる前には決めたかった。
妥協してマンション購入を検討しだしたところで、夫の鎌倉事業所勤務が決まり、縁もあってこの家を建てることができた。
この場所は、都内まで湘南新宿ラインや東海道線を使えば1本、1時間程度だ。湘南暮らしという響きは、埼玉や千葉、多摩地区の郊外に暮らすよりも、風通しよく聞こえるのが決め手だった。
亜紀からの「お詫び」って何のこと?
『この前のお詫びに、ランチでもどう? 駅前のEATALYはどうかしら?』
無心で庭の花壇に、来年の春に向けてチューリップの球根を植えていると、スマホが揺れた。ホームパーティーに唯一来てくれた亜紀からだった。
――お詫び、って何かされたっけ?
テラモにあるEATALYは、イタリア発の食材店で本場の味やメニューを提供するレストランを併設している。
丸の内や銀座、原宿にもあり、ここ辻堂にも店がある。ほか、この街には、ロンハーマンやminä perhonenの店など、都内でも特別な場所にしか出店していないお店がいくつかある。慶應のSFCへも近い。
その事実は、この地が人から選ばれ、人を選ぶ場所なのだと沙耶の自意識を存分に満たしている。
「これ、パンとお漬物のお礼のタルト。お子さんと一緒にどうぞ」
亜紀は席に着くなり、横浜のそごうで購入してきたという可愛らしいタルトを沙耶に手渡した。
「後輩」でもあり「上司」でもあった友人
「ありがとう、こんな気遣い、いいのに」
「ううん。この前の帰りに、せっかくのお土産を『苦手』って言ったことが後で引っ掛かって…余計なひと言だったってずっと後悔していたんだ」
沙耶は、彼女の言う「お詫び」がそのことだと合点した。
確かにひと言多かったが、そんな小さなことをずっと気にしているようではさぞ生きづらいだろうと、その繊細さに哀れみを寄せる。
しかしながら、わざわざランチに誘ってくれたのは素直に嬉しかった。近所のオシャレな店は、実際住んでみるとめったに行かないものだから。
「どう、仕事は?」
運ばれてきたパスタをスプーンの上で巻きながら尋ねると、亜紀は口元に手を添えて微笑んだ。
「相変わらず綱渡り。スタートアップだからね、今が踏ん張り時だと」
亜紀は、沙耶のかつて勤めていた会社の後輩でもあり上司でもあった。
沙耶が産休と育休を長くとっている間に、彼女に地位も給料も追い抜かされてしまっていた。仕事を休んでいたから当然のことだ。
彼女はいまでも「自分のせいで居づらくなって会社を辞めた」と思っているようだ。だからこそ、こうして懺悔のように友人として繋がってくれている。
社長となった後輩に、悔しさすらない
沙耶自身、正直、追い抜かされた時は悔しかったが、今はもうなにも思わない。退職の理由は正真正銘、引越しと育児専念が理由だ。
亜紀は半年前に独立し、みなとみらいにオフィスを構える会社社長となった。平日に遠出ランチができるいい身分だが、その分失ったものは多いのだろうと沙耶は思う。彼女は、1つ年下なだけだが、いまだ独身で浮いた噂もないから。
電線に止まる鳩のような俯瞰で、しばらく亜紀の会社の話を聞く。
社長だからか、なかなか吐き出す口がないようだ。沙耶はその愚痴を穏やかに受け止めた。
「ごめんなさい、私ばかり話しちゃって。沙耶さんは、最近どうです?」
気が済んだのか、突然、話しを振られた。特別なトピックは出なかった。
「いつも普通よ。相変わらずの日々」
「え、ノーストレスってことですよね。私も早くそんな生活がしたいですよー。大きな家に、イケメンで優しい旦那さんとかわいい子供、すごろくだったら上がりじゃないですか」
亜紀の言葉はもっともで、心持ちがいい。今の生活の中にある希望は、子供の成長くらい。愚痴も感情の揺らぎもない日々。それはとても幸せなこと。
「じゃあ、午後は会社に戻らなきゃ。時間作ってくれて、どうもありがとう」
食事代は知らぬ間に払われていた。
このまま、腐っちゃうのかな…
店を出てすぐ、立ち止まって丁寧にお辞儀をし、シャキシャキと改札口に向かう亜紀の姿がすぐに遠くなった。
彼女の腕にはマルゴーが下がっている。この前美容室で読んだVERYでモデルさんが私物として紹介していたものと同じセンスのいいバッグだが、その値段に驚き、他人事にしていた。
彼女の成功にも、マルゴーにも何も感じない。知らぬ間に、雑踏の中に埋もれている。
――私、このままじゃ、腐っちゃうのかな…。
ふと、湘南暮らしというぬるま湯でふやけて、皺だらけになるだけの自分を想像し、ゾッとした。
何かしなければならない。
そう感じながらも、最近ほとんど動かしていない脳の中に浮かぶアイデアなど何もなかった。
【#3へつづく:穏やかな主婦が知った「浮気より刺激的」なもの。人生初のパチンコで味わった「異世界のような」快感】
(ミドリマチ/作家・ライター)