安成工務店 安成信次社長(1)「公共事業」依存から一転 環境共生住宅の旗手に
入社して2年後の1983年に、大きな出来事が起こる。会社を挙げて応援していた現職町長が選挙で落選。
そのためか、安成工務店は公共工事の指名から外されてしまったのだ。
「これまで一生懸命、町のために仕事をしてきたのに選挙の遺恨で排除されるなんて! それまで売り上げの4割近くを公共工事で上げていたので、このままでは会社が立ち行きません。そこで思い切って公共工事を捨てることにしたのです」
具体的には本社を豊北町から下関市の市街地に移転。公共から民間へと舵を切ったのだ。しかし、その後の道のりは甘くはなかった。
「公共工事はせいぜい60点の仕事をしていれば十分合格、しかし、民間は95点取ってもお客さまが98点を望んでいたら残り3点が不満として残ります。それで評判が落ちれば仕事が来なくなる。民間というのはいかに厳しい世界なのかと思い知りました」
当時社長だった父とも正面から対立。木造住宅へと原点回帰しようとした父に対して、副社長だった安成は「時代遅れだ」と斬って捨て、機能とコストを重視した家造りを主張。大手住宅メーカーの代理店になったり、ツーバイフォー住宅に参入したりと試行錯誤した。