W杯ではその国が独自に築いた「ラグビー文化」が問われる
“平尾ジャパン”は、98年にW杯アジア予選を突破するや、99年に、95年大会で準優勝したオールブラックスの一員、ジェイミー・ジョセフ(現日本代表HC)とグレアム・バショップを日本代表に選出し、世界中を騒然とさせた。2人は当時日本でコーチ兼任でプレーしていたが、IRBの「その国に継続的に3年以上居住」という代表選手資格をクリアしての“合法的な”ジャパン入りだった。
もちろん、IRBは大会後に「ひとつの国を代表した選手は違う国の代表になれない」と規約を改めたが、そんな奇策も奏功せず、日本は3戦全敗でW杯を終えた。
■日本を去ったエディーが率いる豪州準優勝の皮肉
平尾とともに監督として第2回大会を戦った宿澤広朗は、テレビ解説で全敗したチームを「ニュージーランドのコピーのような戦い方で、日本らしさが感じられなかった」と厳しく指摘。W杯では勝敗だけではなく、その国が独自に築いたラグビー文化が問われると力説した。
けれども、その宿澤が強化委員長として臨んだ2003年W杯も、スコットランド、フランスには健闘したものの、3戦目以降、中4日、中3日と試合間隔が短くなる変則日程に悩まされて、やはり全敗だった。
皮肉なことに、この大会の決勝戦で、ラグビー史に残る死闘の末にイングランドに敗れて準優勝したオーストラリアを率いたのが、96年に日本を指導したエディーだった。失った宝は、大きかったのである。