「5年12億円」の阪神より“最低保証2200万円”のメッツを選んだ新庄のひと言
野崎勝義(元阪神球団社長)#2
新庄から電話がかかってきたのは、2000年12月7日の夜10時だった。
聞けば11日の午後3時に、どこかホテルで会いたいという。その年にFA権を取得、去就が注目されていた新庄が、答えを出したのだと思った。派手好きな彼の性格も考えて、わたしは阪神グループの経営する5つ星ホテルの名前を告げた。阪神タイガースのフロントが、新庄と交渉を始めてから数カ月。タイガースを出ることが前提だったものの、状況は変わってきたように感じていた。
意中と思われた横浜はローズが退団して戦力ダウンしたうえに、この年のオフに森祇晶監督が就任。新庄は管理野球では自分の力を発揮できないと考えていたようだし、ヤクルトにしても外野のポジションはすでに埋まっていて、人を介して自分から売り込んでいたようだった。わたしは間違いなく「5年12億円」の条件を提示したタイガースに残留すると思っていた。
その場で残留が決まれば会見を行う可能性もあったため、「タイガースの文字通り中心選手の残留が決定し、これで、少しはファンの方々のご期待に沿えることができたのではないかと安堵しております」というコメントまで用意したほどだ。
「メジャーで自分の力を試したい」
新庄の出した答えはしかし、メジャー挑戦だった。会うなり、「申し訳ありません」と切り出された。契約金30万ドル(当時のレートで約3300万円)、年俸20万ドル(同2200万円)、出来高払い50万ドル(同5500万円)でニューヨーク・メッツに行くという。
出来高払いを含めて満額を手にしたとしても1億1000万円。20万ドルという年俸は当時のメジャーリーガーの最低保障額だ。タイガースが提示した「5年12億円」とは比較にならない。
わたしは「本当にその条件で行くのか?」と何度も尋ねたが、「メジャーで自分の力を試したいんです」と言うばかりだった。
タイガースとしては悔いのない条件を提示したつもりだったが、12億円を捨てても夢や希望を優先したいという新庄のある意味、潔さのようなものを感じた。
そして別れ際、「タイガースを強いチームにしてくださいね」と言われた。
それから6年後の2006年7月。その年の球宴は宮崎のサンマリンスタジアムで行われた。球宴に備えて現地入りすると、宮崎空港の荷物受取所で、日本ハムの外野手として球宴に出場する新庄とバッタリ会った。
「社長、タイガースは強くなりましたね」
ニッコリとほほ笑みながらこう言われたのを鮮明に覚えている。
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▽野崎勝義(のざき・かつよし) 1942年、大阪府東大阪市出身。阪神電気鉄道株式会社・航空営業本部旅行部長を経て、96年、阪神タイガースに球団常務として出向。01年から04年まで球団社長を務めた。