背番号「5」と「SHINJO」の真相…入団会見時のハイネックはマンハッタンで物色
2000年12月11日にメッツへの移籍を発表してから数日後、わたしは新庄とともにニューヨークへ飛んだ。現地で本契約を結び、入団会見を行うためだ。
■NY着から入団会見後のNBA観戦までの一部始終
JFK空港に到着すると、迎えのリムジンに乗ってクイーンズ地区のシェイ・スタジアムにある球団事務所へ。新庄は日本ハムの監督としても付けている背番号「1」を欲しがったが、当時はコーチのムーキー・ウィルソンが付けていた。ウィルソンはメッツで10年間プレーした元外野手。ニューヨークでも絶大な人気があったため譲ってもらうわけにはいかない。結局、阪神時代と同じ「5」を背負うことになった。身体検査の後、ユニホームの背中に入れる名前について、今度は広報のジェイ・ホロウィッツから問い合わせがあった。
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わたしのスカウティングリポートには「SHINJO」とあるのに、阪神時代の動画を見たら「SHINJYO」となっている。どちらにしたらよいのかというのだ。「JYO」でなく「JO」としたのはわたしの思い込みによる単純ミスだったが、本人は「ちょっと考えさせてください」とその場で1、2分考えた後、「大慈彌さんの出した方でいきましょう」と「SHINJO」に。英語つづりの方が格好いいと判断したようだった。
借りてきた猫のようにおとなしかった
米国人の代理人と契約年数を含む契約内容の最終確認をしてから、球団の用意したマンハッタンの高級ホテルへ。新庄はチェックイン早々、翌日の入団会見でユニホームの下に着るものを買いたいという。
マンハッタンの高級ブティックを2、3軒回ったのは、ファッションにこだわりがあるからだろう。彼は黒のハイネックのセーターを購入した。
その夜は翌日の正式契約と入団会見の打ち合わせを兼ねてミナヤGM補佐とキューバ料理店で食事。魚料理のうまい店だったが、新庄は緊張からか、借りてきた猫のようにおとなしかった。
翌日は正式な契約書にサイン。無事に入団会見が終わると、ミナヤGM補佐を含む3人でマディソン・スクエア・ガーデンに出掛けた。NBAニューヨーク・ニックスの試合を観戦するためだ。
前日にホロウィッツからニューヨークを案内したらどうかという提案があって自由の女神を見に行く選択肢もあったものの、NBA観戦がよいということに。ホロウィッツは1席13万円もする最前列のチケットを手配してくれた。新庄がプロバスケットの最高峰のプレーを食い入るように見ていたのが印象的だった。
わたしは早々に帰国したが、彼はその後、代理人や事務所の人と住居探しをした。ニューヨーク滞在は短期間だったとはいえ、彼はジムでのトレーニングを欠かさなかった。 =つづく
▽大慈彌功(おおじみ・いさお)1956年、大分県出身。76年ドラフト外の捕手として太平洋クラブ(のちのクラウンライター、西武)に入団。引退後、渡英。ダイエー(現ソフトバンク)、ロッテで通訳を務めたのち、97年からメジャーのスカウトに。メッツ、ドジャース、アストロズ、フィリーズで環太平洋担当部長を歴任。