新庄剛志は根っからのエンターテイナー…高級レストランに招待後、自ら手品を披露
大慈彌功(元メッツスカウト)#5
メジャーリーガーとして初めて迎えた2001年のシーズン。新庄はメッツの外野手で最多の123試合に出場、打率.268、10本塁打、56打点の成績を残してセンターのレギュラーに定着した。
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■「すべてはジミーの仕事」
当時の監督はボビー・バレンタイン。新庄の活躍は指揮官の選手起用抜きに語れないが、バレンタイン監督は彼の獲得には一切関わっていなかった。そのため正式契約後、オマー・ミナヤGM補佐に新庄の活躍度を尋ねたところ、「すべてはジミー(大慈彌)の仕事だ」と言われたという。
新庄が活躍しなかったときの責任がわたしひとりの肩にかかったと思うと同時に、自分の見込んだ選手を獲得することができたという仕事への達成感があったことを覚えている。
新庄の日本ハム入団とバレンタインのロッテ監督就任が決まった2003年オフか、翌年のオフだったと思う。
感謝の気持ちからだろう。新庄はバレンタイン監督とわたしを、愛宕グリーンヒルズのレストランに招待してくれた。律義で義理堅い男なのだ。
東京タワーを見ながら食事を楽しんだ後は、我々をバーラウンジへ連れていき、そこで自ら手品を披露した。
彼は根っからのエンターテイナーで、見ている人をいかにして楽しませるか、喜んでもらえるかを考え、それを実践する。
余談だが、わたしの結婚式には彼の方から出席したいという申し出があった。恐れ多いと思ったけれど、実際に出席、余興で来てもらったマジシャンの手品を食い入るように見て研究していた。
「パンチョ伊東さん」の見立て
新庄のメジャー挑戦が決定したときのこと。夜のプロ野球ニュースで他の野球解説者の否定的な意見に対して、「パンチョ伊東」ことメジャー通の伊東一雄さんだけは、案外、通用するのではないかと話していた。
1年目にメッツの中堅手として活躍。2年目はジャイアンツで日本人選手として初めてワールドシリーズに出場、安打も放った。
大方の予想を覆したのは本人の実力はもちろん、公にならない部分での努力があればこそだろう。
そんな彼の選手生活のひとコマに関われたことはうれしく思うし、監督としても成功してもらいたいと心から願っている。(この項おわり)
▽大慈彌功(おおじみ・いさお) 1956年、大分県出身。76年ドラフト外の捕手として太平洋クラブ(のちのクラウンライター、西武)に入団。引退後、渡英。ダイエー(現ソフトバンク)、ロッテで通訳を務めたのち、97年からメジャーのスカウトに。メッツ、ドジャース、アストロズ、フィリーズで環太平洋担当部長を歴任。