日本プロに「気概ある勝負師の不在」世界を相手に勝ってやろうという根性が伝わってこない
かつてゴルフのオリンピックといわれたカナダカップ(現・ワールドカップ)が霞ケ関CCで開催され、日本代表の中村寅吉が小野光一とペアを組んで個人戦、団体戦の両タイトルを制したのは今から65年も前(1957年)のことだ。
「会場が芝目の強いコーライグリーンだったから日本選手が勝てた」と言う人が多かった。
その時のことを中村寅吉に取材したことがある。
下馬評では、「日本は5位に入れば上々」といわれていた。しかし、中村と小野は「それなら勝ってやろう」と、事前に1カ月ぐらい会場でみっちり合宿した。
小野は程ケ谷CCに所属する前、霞ケ関CCで修業しており、コースに吹く風向き、どういう攻め方をしたらいいかなど、よく分かっていた。
中村は当時ドライバーが230ヤードぐらいしか飛ばなかった。だから、「セカンドは木(ウッド)で打っても届かないミドル(パー4)がいくつもあった」と振り返った。そういうホールでは、「無理に飛ばしてグリーンに直接乗せようとしないで、グリーン手前のバンカー横の傾斜に低い球でぶつけると転がって乗っていくところがあった」と攻略ルートをしっかり見つけていたのだ。