多くの世界王者を育てた日本ボクシング界の名伯楽・米倉健司
ゴンザレスには、1974年春のその試合の前にパナマで2回世界タイトル戦をやって、2回とも負けていた。
普通なら3回も挑戦させてもらえない。米倉が懸命に努力してのマッチメークだった。
米倉はガッツに名トレーナーのエディ・タウンゼントをつけた。
「ボクシングは、根性だとか技術だとか言いますけど、一番大事なことはスタミナなんですよね。スポーツマンは体力なんですよ」
ガッツがこう語るのも、エディに教えられてだった。
そのエディが、ガッツに、ある試合で、
「よく聞きなさい。イシマツ、これ、ケンカよ! ケンカ。あんた得意でしょ? ケンカよ、ケンカ」
と怒鳴り、ガッツの闘争本能を呼び起こして、相手をKOさせたというのもおもしろい。
「チャンピオン請負人」と呼ばれたエディは1914年にハワイのオアフ島に生まれ、幼時に、「やあい、混血!」といじめられて育った。そして日本人と結婚し、47歳の時、「妻の国であり、父母の国、祖父の国」である日本へやって来た。プロボクサーからトレーナ一に転向してだった。呼んだのは力道山である。力道山はプロレスだけでなく、ボクシングにも進出しようとしていたが、エディが日本に来てまもなく、刺されて急死した。
「ボクシング・マガジン」の編集長をやった山本茂はその著『エディ』(PHP研究所)に「選手が勝ったときはそばを離れて1人になる。負けたときはずうっと一緒にいてやる」のがエディのやり方だったと書いている。米倉も気持ちとしてはそうだったろう。(文中敬称略)