「特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー」カズオ・イシグロ著
1979年の秋、24歳のカズオ・イシグロは、リュックを背負い、ギターとポータブルタイプライターをぶら下げて、イングランドの小さな村バクストンに着いた。ロックスターを志していた若者は、住み慣れたロンドンを離れ、静けさと孤独の中で作家への転身を目指した。
ある夜、差し迫った思いに駆られ、原爆投下後の長崎の物語を書き始めていた。自分が生まれ、5歳まで育った長崎、そして日本を、文字で記した。それは、幼い記憶や両親の会話の断片を材料に、自分の中に精緻につくられていった「私だけの日本」が失われてしまわないように、「保存する」作業にほかならなかった。
ノーベル賞作家、カズオ・イシグロはどのようにして誕生したのかを作家自身が語った英語の講演の対訳本。個人的な体験を披歴しながら、創作への真摯な思いが語られる。
トム・ウェイツの歌の1行、ハワード・ホークス監督の映画「特急二十世紀」などから重要なインスピレーションを得たこと。ナチスの強制収容所跡を見学した後、「両親の世代の記憶と教訓を、できるだけ力を尽くして、次に来る世代に伝える義務があるのではないか……」と考えるようになったこと。そして、次に書くべき作品のこと。
平易で端正な訳文を通して、カズオ・イシグロの肉声が、確かに聞こえてくる。(早川書房 1300円+税)