「ギリヤーク尼ヶ崎という生き方」後藤豪著
1968年秋。東京・銀座の数寄屋橋公園で、1人の創作舞踊家が街頭デビューした。チョークで地面に輪を描き、真っ赤なピエロの衣装に着替えて、顔にドーランを塗る。テープレコーダーのボタンを押し、踊り始める。ギリヤーク尼ヶ崎38歳。大道芸人人生の始まりだった。
それから半世紀。東京、パリ、ニューヨーク、北京と世界の地面の上で踊り続けて、いま91歳。投げ銭を糧に生きてきた。「じょんがら一代」「よされ節」「念仏じょんがら」など、ファンにはなじみの作品も、昔のようには踊れない。心臓病、脊柱管狭窄症、パーキンソン病を抱える満身創痍の体で、命ある限り大道芸人であろうとしている。
著者は毎日新聞の記者。ギリヤークさんを自宅に訪ねてインタビューを重ね、たくさんの言葉を引き出した。ギリヤークさんは奇人変人ではない。エキセントリックな前衛芸術家でもない。
函館の菓子屋の次男で、本名は尼ヶ崎勝見。器械体操が得意で、予科練に憧れる軍国少年だった。祖母に連れられて映画館通いをしたからか、21歳のとき、映画スターを夢見て青函連絡船に乗った。東京で俳優修業をするが芽が出ず、舞踊家を志す。創作舞踊家に3年間師事、その後は我流で自分の踊りを模索した。津軽三味線や鈴木大拙が踊りの原点になったという。
しかし、踊りでは食べられない。高度成長まっただなか、30代半ばのギリヤークさんはアルバイト仕事に明け暮れながら、もがいていた。踊りたい。自由に表現する場が欲しい。追い詰められた挙げ句の選択が、街頭に出ることだった。
著者がトレードマークの長髪の理由を聞くと、「床屋さんに行くお金がないんです」と答える。不器用でひたむき。弟子もできず、お金もたまらない。それでも命懸けで踊ってきた。もはや生き方そのものが芸になっている。
(草思社 1980円)