「逃げても、逃げてもシェイクスピア」草生亜紀子著
「逃げても、逃げてもシェイクスピア」草生亜紀子著
シェイクスピアの全戯曲37作を1人で翻訳した日本人は3人いる。坪内逍遥、小田島雄志、そして松岡和子。和子は2021年、28年がかりで全集刊行を成し遂げた。
それなのに、人生の前半はシェイクスピアからの遁走劇だったというから面白い。大学でシェイクスピア研究会に入ったものの、古い英語が難し過ぎて尻尾をまいて退散。その後も逃げ続けるのだが、演劇に目覚め、現代劇の翻訳なども始めた和子の前に、折に触れてシェイクスピアが姿を現す。見えない手に招かれるように、いつしかシェイクスピア劇の翻訳に手を染めていた。
400年前の英語で書かれた戯曲を、今を生きる私たちの日本語にしていくとはいったいどんな作業なのか。シェイクスピアとガチで向き合う羽目になった翻訳家の悪戦苦闘ぶりが例文入りで語られる。確かに、想像以上の難業だ……。
実は翻訳家・松岡和子伝が本作のすべてではない。むしろ、和子を育んだ家族の物語に多くの紙数が割かれている。戦前から始まる物語は波瀾万丈だ。
満州で暮らしていた一家は、敗戦直後に引き裂かれてしまう。父はソ連に抑留され、母は3人の幼子を抱えて引き揚げた。このとき和子3歳。父の生死もわからないまま、母は英語の教師をして子どもたちを育てた。和子が中2のとき、父は老人のようになって帰還した。後に過酷な抑留生活を克明に記録した著書を刊行している。
両親の「生き抜く力」は和子にも受け継がれたのだろう。結婚後も子育て、認知症の義母の介護をしながら仕事を続けた。大学で教え、劇評を書き、戯曲を翻訳する。どんなに大変でも愚痴はこぼさない。どうせやるなら「絶対ニコニコしてやろう」と決めていた。フルコースの人生を選んだスーパーウーマンの素顔はしなやかで実にチャーミングだ。
和子の尋常でない半生と人間のあらゆる面を描いたシェイクスピア。両者が交錯し響き合って、人生の深い味を堪能させてくれる一冊。 (新潮社 1980円)